漫画・小説・演劇・ドラマ、ジャンルも媒体も男も女も関係なく、腐った可愛そうな頭の人間が雑多に書き散らすネタ帳です。 ていうかあれだ。サイトに載せる前の繋ぎみたいな。
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久々に見上げる本社のビル。バリバリと営業をこなしていた頃が、酷く昔に思えた。新幹線の中、確かに浮上した筈の気持ちなのに、足取りが重くなる。
時計を見れば、十一時。まだ約束の十三時には、時間がある。
「とりあえずケンちゃんにメールしとくか……」
着いた着いた!
いや~久しぶりの東京だけど変わってねえなあー!
ちっとブラブラしてから会社向かうわ~。
「……よし」
おちゃらけた文章を作り、里中に送ると、東海林は踵を返して会社の近くにある広場へと向かう。
片隅のベンチに腰掛けて辺りを見渡すと、いつかに見慣れた景色が視界に入った。ここは本当に変わらない。本社に入社した頃を思えば多少整備されたりはしているが、その程度だ。
変わったのは自分だけのような気がする。否、一人取り残された、という方がしっくり来るかも知れない。
あの本社の中では、今も里中や黒岩のように東海林をよく知る社員が、そして、東海林を知らない新社員達が働いているのだろう。森美雪も社員になったと里中から聞いた。そうやって時は流れていく。自分は、またその流れに乗ることが出来るのか。
「……飯、食うかー……」
寒空の下のベンチで、東海林は手提げを膝に置いた。と、弁当を広げようとするのと同時に携帯が震える。誰からかを見ると、表示されたのは里中の名前だった。
「もしもし、ケンちゃん?」
『東海林さん、久しぶり! もう着いてるんだよね? どこにいるの?』
「ん? 本社の近くの広場に……まだ仕事中だよな?」
『いや、それが、霧島部長に東海林さんが着いてること言ったら前倒しで昼休憩にしていいって……その方が休憩終わった後会議の準備もスムーズだろうって……あ、居た!』
「お? おー、ケンちゃん!」
携帯の向こうから聞こえていた声が近くなって、東海林は通話を切る。走り寄ってくる仕事仲間に、自然と笑みが漏れた。
「会えて良かったー! 東海林さん、元気だった?」
「おー、元気元気! ケンちゃんも元気そうで良かった!」
東海林も、立ち上がると再会を喜んだ。里中とは、春子が東海林のところへ契約をしにきた時なので実際は一ヶ月ぶりくらいになる。
「東海林さん、お昼は……」
里中は東海林の隣に腰掛けると、東海林のもつ手提げを覗いた。
「あれ、お弁当?」
「ん? あーなんか、とっくりが『ついでです!』って寄越したんだよ」
「大前さん、て、大前さんが!?」
思わず瞠目した里中だが、それもそのはずだ。
本社の頃の大前春子といえば、自ら社員に関わるのは書類の提出と指示を仰ぐときのみ、と言っても過言ではないような態度で、まさか、まさか、東海林武に弁当を持たせるような女性ではなかった。ハケン弁当の時に手作り弁当は食べたが、あれはあくまでも『栄養バランスのとれたそれでいて見目のいいお弁当』の例えを作ったものであって、今回とは根本的に異なるものだろう。例えば、愛情だとかそんなものが。
羨ましいを通り越してただただ驚愕するばかりだ。
「すごいよ東海林さん、……もしかして、一緒に暮らしてたり……」
「アイツがそんなタマなわけないだろー。しっかり自分の部屋借りて暮らしてるっての」
これだって、隣人に貰ったおかずのお礼に作った弁当のおこぼれ、と唇を尖らせる東海林に、里中が笑う。
「でも嬉しいんでしょ?」
「……ケンちゃん、飯は?」
「ハケン弁当の新しいおかずの試食でお腹一杯だから、心配しなくていいよ。食べて食べて」
照れた顔、唇を尖らせたままで開いた弁当箱、中身は、鯖の味噌煮、レンコンや人参の煮物等諸々に、何故か。
『……焼きそば?』
脇にちょんちょんと詰められたそれは、紛れもなく、焼きそば。
東海林が首を傾げる。
「普通弁当におかずで焼きそば入れるか……?」
「……東海林さんが焼きそばパンばっかり食べてるからじゃないかな」
「俺? ……だってそりゃ、焼きそばパン好きだしねえ」
「うん、だからさあ」
「……」
「東海林さんが好きなものだと思ったから、入れたんじゃないかな?」
微笑む里中の言葉に、東海林の顔が赤みを帯びた。
「良かったね、東海林さん」
「……んじゃ、いただきます……」
一口ずつ頬張るおかず。旨くないわけがなかった。
※※※
「土屋さん、昨晩はありがとうございました」
春子は、お昼休みになると土屋のもとに向かった。午後から配達の彼に弁当を渡すためだ。
特別な意味はないので誰に見られようが構わないが、幸い、人気は少ない。礼をいうと土屋がはにかんで頭を掻いた。
「いや、そんな、本当悪かったよあんな時間に」
「お礼という程でもありませんが、どうぞ」
言いながら、三角巾に包んだ弁当を渡す。
「え、わざわざ作ってくれたとか?」
嬉しそうに笑う土屋に、春子が言った。
「……土屋さん、大変申し訳ありませんが、今後は、私に対してのお気遣いは無用ですので」
「え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした土屋には構わず春子が軽く頭を下げる。
「では」
「あ、春ちゃん!」
「はい?」
呼び止められて立ち止まった春子に、一度何かを決意したように唾液を飲み込む土屋。その唇が開く。
「春ちゃんて付き合ってる奴っているのか?」
「いいえ」
即答する。
「じゃあ、……惚れてる奴はいるか?」
ぴくりと春子の肩が震えた。
時間がゆっくりと流れる。
土屋の表情があまりに真剣で、関係ないでしょう、とは言えなかった。否、言わなかった。
「……はい」
目を背けるのはもう止めることにしたから。
信じたいと思う人が出来たから。
好きだと想う人がいる。
だから、あなたが好きと言ってくれても、ごめんなさい。私は応えられない。
「他にご質問は」
「いや……ねえや……」
「それでは」
背を向けた大前春子を、土屋は唇を噛んで見送った。
時計を見れば、十一時。まだ約束の十三時には、時間がある。
「とりあえずケンちゃんにメールしとくか……」
着いた着いた!
いや~久しぶりの東京だけど変わってねえなあー!
ちっとブラブラしてから会社向かうわ~。
「……よし」
おちゃらけた文章を作り、里中に送ると、東海林は踵を返して会社の近くにある広場へと向かう。
片隅のベンチに腰掛けて辺りを見渡すと、いつかに見慣れた景色が視界に入った。ここは本当に変わらない。本社に入社した頃を思えば多少整備されたりはしているが、その程度だ。
変わったのは自分だけのような気がする。否、一人取り残された、という方がしっくり来るかも知れない。
あの本社の中では、今も里中や黒岩のように東海林をよく知る社員が、そして、東海林を知らない新社員達が働いているのだろう。森美雪も社員になったと里中から聞いた。そうやって時は流れていく。自分は、またその流れに乗ることが出来るのか。
「……飯、食うかー……」
寒空の下のベンチで、東海林は手提げを膝に置いた。と、弁当を広げようとするのと同時に携帯が震える。誰からかを見ると、表示されたのは里中の名前だった。
「もしもし、ケンちゃん?」
『東海林さん、久しぶり! もう着いてるんだよね? どこにいるの?』
「ん? 本社の近くの広場に……まだ仕事中だよな?」
『いや、それが、霧島部長に東海林さんが着いてること言ったら前倒しで昼休憩にしていいって……その方が休憩終わった後会議の準備もスムーズだろうって……あ、居た!』
「お? おー、ケンちゃん!」
携帯の向こうから聞こえていた声が近くなって、東海林は通話を切る。走り寄ってくる仕事仲間に、自然と笑みが漏れた。
「会えて良かったー! 東海林さん、元気だった?」
「おー、元気元気! ケンちゃんも元気そうで良かった!」
東海林も、立ち上がると再会を喜んだ。里中とは、春子が東海林のところへ契約をしにきた時なので実際は一ヶ月ぶりくらいになる。
「東海林さん、お昼は……」
里中は東海林の隣に腰掛けると、東海林のもつ手提げを覗いた。
「あれ、お弁当?」
「ん? あーなんか、とっくりが『ついでです!』って寄越したんだよ」
「大前さん、て、大前さんが!?」
思わず瞠目した里中だが、それもそのはずだ。
本社の頃の大前春子といえば、自ら社員に関わるのは書類の提出と指示を仰ぐときのみ、と言っても過言ではないような態度で、まさか、まさか、東海林武に弁当を持たせるような女性ではなかった。ハケン弁当の時に手作り弁当は食べたが、あれはあくまでも『栄養バランスのとれたそれでいて見目のいいお弁当』の例えを作ったものであって、今回とは根本的に異なるものだろう。例えば、愛情だとかそんなものが。
羨ましいを通り越してただただ驚愕するばかりだ。
「すごいよ東海林さん、……もしかして、一緒に暮らしてたり……」
「アイツがそんなタマなわけないだろー。しっかり自分の部屋借りて暮らしてるっての」
これだって、隣人に貰ったおかずのお礼に作った弁当のおこぼれ、と唇を尖らせる東海林に、里中が笑う。
「でも嬉しいんでしょ?」
「……ケンちゃん、飯は?」
「ハケン弁当の新しいおかずの試食でお腹一杯だから、心配しなくていいよ。食べて食べて」
照れた顔、唇を尖らせたままで開いた弁当箱、中身は、鯖の味噌煮、レンコンや人参の煮物等諸々に、何故か。
『……焼きそば?』
脇にちょんちょんと詰められたそれは、紛れもなく、焼きそば。
東海林が首を傾げる。
「普通弁当におかずで焼きそば入れるか……?」
「……東海林さんが焼きそばパンばっかり食べてるからじゃないかな」
「俺? ……だってそりゃ、焼きそばパン好きだしねえ」
「うん、だからさあ」
「……」
「東海林さんが好きなものだと思ったから、入れたんじゃないかな?」
微笑む里中の言葉に、東海林の顔が赤みを帯びた。
「良かったね、東海林さん」
「……んじゃ、いただきます……」
一口ずつ頬張るおかず。旨くないわけがなかった。
※※※
「土屋さん、昨晩はありがとうございました」
春子は、お昼休みになると土屋のもとに向かった。午後から配達の彼に弁当を渡すためだ。
特別な意味はないので誰に見られようが構わないが、幸い、人気は少ない。礼をいうと土屋がはにかんで頭を掻いた。
「いや、そんな、本当悪かったよあんな時間に」
「お礼という程でもありませんが、どうぞ」
言いながら、三角巾に包んだ弁当を渡す。
「え、わざわざ作ってくれたとか?」
嬉しそうに笑う土屋に、春子が言った。
「……土屋さん、大変申し訳ありませんが、今後は、私に対してのお気遣いは無用ですので」
「え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした土屋には構わず春子が軽く頭を下げる。
「では」
「あ、春ちゃん!」
「はい?」
呼び止められて立ち止まった春子に、一度何かを決意したように唾液を飲み込む土屋。その唇が開く。
「春ちゃんて付き合ってる奴っているのか?」
「いいえ」
即答する。
「じゃあ、……惚れてる奴はいるか?」
ぴくりと春子の肩が震えた。
時間がゆっくりと流れる。
土屋の表情があまりに真剣で、関係ないでしょう、とは言えなかった。否、言わなかった。
「……はい」
目を背けるのはもう止めることにしたから。
信じたいと思う人が出来たから。
好きだと想う人がいる。
だから、あなたが好きと言ってくれても、ごめんなさい。私は応えられない。
「他にご質問は」
「いや……ねえや……」
「それでは」
背を向けた大前春子を、土屋は唇を噛んで見送った。
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「昨日も言ったように、今日は一日、東京へ出ます。帰社しないので何か報告等あれば明日、緊急なら逐次携帯にお願いします……」
朝礼を終えた東海林は本社のある東京への出張のため、名古屋営業所を出立した。
向かうは、S&F本社。東海林武の、家にも等しい……否、等しかった、場所。
東京に赴くのは、名古屋に飛ばされてからは初めてだ。一応、里中には東京へ向かう旨を連絡したので、久々に彼に会えることを思えば嬉しくないわけではないが、やはり気分は上がらない。
片や、大きなヤマを当てた本社勤務、片や名古屋の子会社へ事実上左遷された運輸営業所所長。
里中に手柄を返したことを後悔しているわけではないのだが、やはり知った顔ばかりの本社に向かうのは、気が重いものがある。
一人乗り込んだ新幹線。買った缶コーヒーを小さな折りたたみ式の上に置いて窓にもたれ、腕を組んだ東海林は溜め息を吐いた。
(……今日は、とっくりは事務か……)
「……ん、そういやあ……」
東海林は、閉じていた目を開けると、仕事用の鞄とはまた別の、小さな手提げを卓上に置いた。
「とっくりのやつ、何寄越したんだよ……」
朝、東海林が営業所に向かうと、既に一人、誰より早くデスクについていた春子がいた。
その横顔に少し頬を緩ませた東海林は、大前さん、おはよう、と声を掛けた。すると、いつもであれば『おはようございます』と言葉だけ返るのに、春子は徐に立ち上がるとツカツカと東海林の元へ歩み寄った。
書類に印鑑か何か欲しいのか、と首を傾げる東海林に定例通り『おはようございます』を返した後、春子はずいっとこの手提げを突き出したのだ。
東海林は突然のそれに、面食らう。
『おおっ……!?』
『ついでです』
『……は?』
『昨日土屋さんに夕飯のおかずを頂いたのでそのお礼に作ったものの余った材料を使って作ったので、あなたのはついでです』
『つ、土屋におかず? ていうかついでっつ……』
問いただそうとした東海林だったが、結局他の職員が出社してきたため、そのまま春子と話す暇もなく出て来てしまった。
渡された手提げ、普通に考えれればお弁当。
「いや……だって、とっくりだぞ? まさかなー……」
東海林は、中に入っている包みを丁寧に広げた。と、そこには、一枚の白い紙が入っている。折り畳んであるそれを広げれば、綺麗な筆跡で二言の簡素なメモめいたそれ。
無理をしないこと。
行ってらっしゃい。
「……マジか……?」
思わず、頬を抓った。
たった二行。そのたった二行が、とんでもなく嬉しい。
なんだよ、どうしたとっくり大前春子。
あ……でもこれ、土屋のついでなんだよな。
少し気落ちしたが、それでも嬉しいものは嬉しい。
その場で開けようとして、まだ食うには早い、と、思いとどまる。メモだけ大切に手帳に挟み、中身は包みに戻して手提げに入れた。
少し憂鬱だった気分は、いとも簡単に浮上した。我ながら現金なものである。
「……あーなんだよ……あー……会いたくなったじゃねえか、ちくしょう……」
端から見れば確実に不審者。独り言を呟きながらにやける男を乗せて、新幹線は速度を上げた。
朝礼を終えた東海林は本社のある東京への出張のため、名古屋営業所を出立した。
向かうは、S&F本社。東海林武の、家にも等しい……否、等しかった、場所。
東京に赴くのは、名古屋に飛ばされてからは初めてだ。一応、里中には東京へ向かう旨を連絡したので、久々に彼に会えることを思えば嬉しくないわけではないが、やはり気分は上がらない。
片や、大きなヤマを当てた本社勤務、片や名古屋の子会社へ事実上左遷された運輸営業所所長。
里中に手柄を返したことを後悔しているわけではないのだが、やはり知った顔ばかりの本社に向かうのは、気が重いものがある。
一人乗り込んだ新幹線。買った缶コーヒーを小さな折りたたみ式の上に置いて窓にもたれ、腕を組んだ東海林は溜め息を吐いた。
(……今日は、とっくりは事務か……)
「……ん、そういやあ……」
東海林は、閉じていた目を開けると、仕事用の鞄とはまた別の、小さな手提げを卓上に置いた。
「とっくりのやつ、何寄越したんだよ……」
朝、東海林が営業所に向かうと、既に一人、誰より早くデスクについていた春子がいた。
その横顔に少し頬を緩ませた東海林は、大前さん、おはよう、と声を掛けた。すると、いつもであれば『おはようございます』と言葉だけ返るのに、春子は徐に立ち上がるとツカツカと東海林の元へ歩み寄った。
書類に印鑑か何か欲しいのか、と首を傾げる東海林に定例通り『おはようございます』を返した後、春子はずいっとこの手提げを突き出したのだ。
東海林は突然のそれに、面食らう。
『おおっ……!?』
『ついでです』
『……は?』
『昨日土屋さんに夕飯のおかずを頂いたのでそのお礼に作ったものの余った材料を使って作ったので、あなたのはついでです』
『つ、土屋におかず? ていうかついでっつ……』
問いただそうとした東海林だったが、結局他の職員が出社してきたため、そのまま春子と話す暇もなく出て来てしまった。
渡された手提げ、普通に考えれればお弁当。
「いや……だって、とっくりだぞ? まさかなー……」
東海林は、中に入っている包みを丁寧に広げた。と、そこには、一枚の白い紙が入っている。折り畳んであるそれを広げれば、綺麗な筆跡で二言の簡素なメモめいたそれ。
無理をしないこと。
行ってらっしゃい。
「……マジか……?」
思わず、頬を抓った。
たった二行。そのたった二行が、とんでもなく嬉しい。
なんだよ、どうしたとっくり大前春子。
あ……でもこれ、土屋のついでなんだよな。
少し気落ちしたが、それでも嬉しいものは嬉しい。
その場で開けようとして、まだ食うには早い、と、思いとどまる。メモだけ大切に手帳に挟み、中身は包みに戻して手提げに入れた。
少し憂鬱だった気分は、いとも簡単に浮上した。我ながら現金なものである。
「……あーなんだよ……あー……会いたくなったじゃねえか、ちくしょう……」
端から見れば確実に不審者。独り言を呟きながらにやける男を乗せて、新幹線は速度を上げた。
派遣の仕事をしている時は、カンタンテに住まわせてもらっていた。食事は、自分で作ったり、眉子ママが作ってくれたり。パエリアを作ると、大抵余ってリュートのご飯になったりして。
洗濯、掃除は自分でしていた。
スペインでは、みんなとその日暮らし。ゆったりとした時間の中で、それでも自分のことは大体自分でしていた。
一人で生きていけるだけのスキルは身につけた。誰にも頼らないで、自立しないといけないと思っていた。その為に、必死になった。
一人だって、全然構わない。生きていける。それが、何か?
それでも、春子にはいつだって『おかえり』を言ってくれる人が必ず、いた。
※※※
営業所から歩いて二十分足らずの住宅密集地。そこに、今の春子の住まいはある。十九時五十分、今日も定時の帰宅とはいかなかった。
春子は鍵穴に鍵を差し込みドアを開けると、体を滑り込ませて玄関の電気を探った。カチャン、と鍵を閉めて、チェーンも掛ける。
ひんやりした廊下を通り、リビング兼寝室の電気も点けた。
入居した時から置いてある据付の家具以外には、殆ど物のない殺風景な部屋。テレビをつける気にはならず、とりあえず手洗いうがいをして部屋着に着替えると、ベッドに沈んだ。
(ご飯……どうしようかなあ……)
簡単に出来るもの……。
適当に何か……。
(……お腹、あんまりすいてないんだ)
料理は好き。美味しいものを美味しく食べるのが好きだから、自分でも美味しいものを作れたら、と思う。誰かが食べてくれて、美味しい、と言ってくれたら、とても嬉しい。
ただそれを、自分一人のために作る気にはなれない。
カンタンテに居た時には、自分の好きな物を好きな時に好きなだけ作って食べていたような気がしていたのだけれど、考えてみれば春子一人で食べきることの出来る量だけちまちま作っていたことはなかった。
余ってしまっても誰かが食べてくれる、そう思って作った料理だった。
誰か、が必ず近くに居た。
(……私らしくもない)
別に、誰かが居る生活が酷く恋しいわけじゃない。ただ、自分は思った以上に人に依存していたのだと気付かされて、人の居ない新しい生活に少し戸惑っているだけ。
(……あの人はちゃんと食べているんだろうか)
一人暮らしは春子よりもずっと長い人。料理をするイメージはあまり、というか全然ないけれど、実際はどうだろう。やっぱり、外食か出来合いのもので済ませていそう。
春子が名古屋に来て、もう直ぐ一ヶ月が経とうとしている。その間に春子個人が東海林に出来たことなんて何もない。
何が出来るだろう。
何が出来るというのだろう。
これなら、同じ名古屋に来るのでも東海林の私生活に介入した方が良かったような気すらしてくる。そうすれば少なくとも、料理を作ってあげる位は出来た。
朝、東海林を起こして、朝ご飯を食べさせて会社へ送り出す。
お昼はお弁当を持たせて、夕飯は何がいいか考えて、作って、帰りを待つ。
帰ってきたら愚痴なんか聞きながら、沸かしたお風呂に追いやって、出て来たら一緒にご飯を食べて。
今の、仕事でもプライベートでも手助けの難しい状況とはかけ離れた暮らし。
そんな考え、来た当初は微塵もなかったのに。
ただただ、東海林が本社に戻れるような手助けを、『仕事』からサポートしたい。それしか考えていなかったのに。
(東海林武、あなたはどっちが良かった……?)
ベッドの前の小さな卓上には、携帯電話。
それを掛けることも出来ないまま、また、それが震えることもないままで、結局春子はそのまま瞳を閉じた。
※※※
春子が目を覚ますと、インターフォンが鳴っていた。時計を見れば、二十一時。こんな夜に誰だろうか。
ノロノロと体を起こした春子は、テレビをつけると携帯を片手に、インターフォンの受話器は取らずに玄関まで足を運ぶ。
玄関の電気はついているから中に人が居ることは外の小窓から見て判っているかも知れないが、こちらが小窓から覗いて、明らかな不審者であれば開けなければいい。
覗いた小窓から見えたのは。
「……土屋さん?」
一応チェーンは掛けたままで上下の鍵を開ける。これまで、土屋が隣人である春子の家に来ることはなかった。何か緊急の用事だろうか?
「はい……」
「あ、春ちゃん、俺。土屋だけどさ」
「何かご用でしょうか?」
「や、用っていうか……ええと、晩飯作ってたら、ちょっと作りすぎて……お裾分けって程もねえんだけど、良ければ食べて欲しいと思って……め、迷惑だったか?」
「……」
迷惑だ。そう言おうかと思った。けれど、作ったものをお裾分けといって持ってくるくらいだ。味には多少自信はあるのだろう。そして、この土屋とて春子よりは一人暮らしの期間は長い、と思われる。そんな土屋が、自分の食べる分以外、他人に分ける程多く作ってしまったりするだろうか? 考えられなくはないけれど、むしろ、春子の分も余分に作ったと考える方が自然な気が……否、流石に深読みし過ぎか。
何にしろ先程まで、誰かが自分の作ってくれた料理を食べてくれたら嬉しい、とそんなことを考えていた春子は、なんとなく、その好意を断ることが出来なかった。
「……少々お待ちください」
春子は、一度扉を閉めるとチェーンを外す。
再びその扉を押すと、タッパーを持った土屋の全身がよく見えた。
「これ」
「わざわざ、ありがとうございます」
渡されたタッパーウェアを受け取ると、暫しの沈黙。
土屋が、口を開いた。少しでもこの時間を延ばそうとするかのように。
「……あ、あのよぉ……春ちゃんて、此処来る前って何の仕事してたんだ?」
「は?」
突飛な質問に、春子は思わず眉をひそめて聞き返す。
「いや、だって、事務とドライバーの兼務なんて普通しないだろ?」
「私が兼務することで何か、業務に支障を来していますか?」
もし何か思うところがあれば言ってくれ、というと、土屋は首を振る。
「いや、そんな意味じゃなくて、あー…その、個人的興味っつか」
前の仕事、とは何を指すのだろうか。春子がこの名古屋営業所に来る切欠となったのは確実にS&F本社での派遣業務だけれど、まさかそれをそのまま言うつもりはなかった。
だってそれではあまりに露骨に、春子が東海林を追ってきたようではないか。それはなんだか、ムカつく。実際その通りだったとしても、だ。
しかし、春子には、東海林であれば営業マン、土屋であればドライバー、というような、この仕事、といえる仕事は特にない。
「私の持つスキルで出来得る仕事をして来ました」
「スキルって、資格か何かか?」
「はい」
そっか、と、泳ぐ土屋の視線。……他に何か言いたいことでもあるのだろうか? そうも思ったが春子は返事だけすると、一拍置いて、では、と続けた。
「……土屋さん、お裾分け、ありがとうございます」
「あ、いやどう致しまして……」
打ち切られた会話に名残惜しげに返す土屋と、これ以上続けるべき話は春子にはなかった。むしろ、職場の人間との会話であることを考えれば続いた方だろう。
「では、また明日。……おやすみなさい」
「おやすみ……」
閉じられた扉の外で小さく息をついた土屋は、頭を掻いて自分の部屋へと戻っていった。
春子は施錠して台所へ行くと、まだ暖かいタッパーを開ける。中には、仄かに湯気のたつ肉じゃが。
「肉じゃが……か」
もっと豪快な料理を作りそうなのに。意外だ。
そう思って、少し微笑う。
(……あの人は……東海林武は、何が好きなんだろう)
そういえばよく知らない。いつも焼きそばパンを筆頭に色々な惣菜パンをかじりながらパソコンに向かっているけれど。
他でちゃんと、栄養をとっているんだろうか。
温かいご飯が、恋しくならないんだろうか。
私がもし主婦のように東海林武を支えていたら、なんてそんなこと、考えても仕方ないのだろう。春子が、春子自身の意思で選んだのは、あの人が一番苦しんでいる場所であの人の支えになることだったのだから。
だから、春子は今、ぶれるわけには行かない。
ただ。
(もう少し素直になってみても)
いいかもしれない。
肉じゃがをつつきながら、そう思った。
洗濯、掃除は自分でしていた。
スペインでは、みんなとその日暮らし。ゆったりとした時間の中で、それでも自分のことは大体自分でしていた。
一人で生きていけるだけのスキルは身につけた。誰にも頼らないで、自立しないといけないと思っていた。その為に、必死になった。
一人だって、全然構わない。生きていける。それが、何か?
それでも、春子にはいつだって『おかえり』を言ってくれる人が必ず、いた。
※※※
営業所から歩いて二十分足らずの住宅密集地。そこに、今の春子の住まいはある。十九時五十分、今日も定時の帰宅とはいかなかった。
春子は鍵穴に鍵を差し込みドアを開けると、体を滑り込ませて玄関の電気を探った。カチャン、と鍵を閉めて、チェーンも掛ける。
ひんやりした廊下を通り、リビング兼寝室の電気も点けた。
入居した時から置いてある据付の家具以外には、殆ど物のない殺風景な部屋。テレビをつける気にはならず、とりあえず手洗いうがいをして部屋着に着替えると、ベッドに沈んだ。
(ご飯……どうしようかなあ……)
簡単に出来るもの……。
適当に何か……。
(……お腹、あんまりすいてないんだ)
料理は好き。美味しいものを美味しく食べるのが好きだから、自分でも美味しいものを作れたら、と思う。誰かが食べてくれて、美味しい、と言ってくれたら、とても嬉しい。
ただそれを、自分一人のために作る気にはなれない。
カンタンテに居た時には、自分の好きな物を好きな時に好きなだけ作って食べていたような気がしていたのだけれど、考えてみれば春子一人で食べきることの出来る量だけちまちま作っていたことはなかった。
余ってしまっても誰かが食べてくれる、そう思って作った料理だった。
誰か、が必ず近くに居た。
(……私らしくもない)
別に、誰かが居る生活が酷く恋しいわけじゃない。ただ、自分は思った以上に人に依存していたのだと気付かされて、人の居ない新しい生活に少し戸惑っているだけ。
(……あの人はちゃんと食べているんだろうか)
一人暮らしは春子よりもずっと長い人。料理をするイメージはあまり、というか全然ないけれど、実際はどうだろう。やっぱり、外食か出来合いのもので済ませていそう。
春子が名古屋に来て、もう直ぐ一ヶ月が経とうとしている。その間に春子個人が東海林に出来たことなんて何もない。
何が出来るだろう。
何が出来るというのだろう。
これなら、同じ名古屋に来るのでも東海林の私生活に介入した方が良かったような気すらしてくる。そうすれば少なくとも、料理を作ってあげる位は出来た。
朝、東海林を起こして、朝ご飯を食べさせて会社へ送り出す。
お昼はお弁当を持たせて、夕飯は何がいいか考えて、作って、帰りを待つ。
帰ってきたら愚痴なんか聞きながら、沸かしたお風呂に追いやって、出て来たら一緒にご飯を食べて。
今の、仕事でもプライベートでも手助けの難しい状況とはかけ離れた暮らし。
そんな考え、来た当初は微塵もなかったのに。
ただただ、東海林が本社に戻れるような手助けを、『仕事』からサポートしたい。それしか考えていなかったのに。
(東海林武、あなたはどっちが良かった……?)
ベッドの前の小さな卓上には、携帯電話。
それを掛けることも出来ないまま、また、それが震えることもないままで、結局春子はそのまま瞳を閉じた。
※※※
春子が目を覚ますと、インターフォンが鳴っていた。時計を見れば、二十一時。こんな夜に誰だろうか。
ノロノロと体を起こした春子は、テレビをつけると携帯を片手に、インターフォンの受話器は取らずに玄関まで足を運ぶ。
玄関の電気はついているから中に人が居ることは外の小窓から見て判っているかも知れないが、こちらが小窓から覗いて、明らかな不審者であれば開けなければいい。
覗いた小窓から見えたのは。
「……土屋さん?」
一応チェーンは掛けたままで上下の鍵を開ける。これまで、土屋が隣人である春子の家に来ることはなかった。何か緊急の用事だろうか?
「はい……」
「あ、春ちゃん、俺。土屋だけどさ」
「何かご用でしょうか?」
「や、用っていうか……ええと、晩飯作ってたら、ちょっと作りすぎて……お裾分けって程もねえんだけど、良ければ食べて欲しいと思って……め、迷惑だったか?」
「……」
迷惑だ。そう言おうかと思った。けれど、作ったものをお裾分けといって持ってくるくらいだ。味には多少自信はあるのだろう。そして、この土屋とて春子よりは一人暮らしの期間は長い、と思われる。そんな土屋が、自分の食べる分以外、他人に分ける程多く作ってしまったりするだろうか? 考えられなくはないけれど、むしろ、春子の分も余分に作ったと考える方が自然な気が……否、流石に深読みし過ぎか。
何にしろ先程まで、誰かが自分の作ってくれた料理を食べてくれたら嬉しい、とそんなことを考えていた春子は、なんとなく、その好意を断ることが出来なかった。
「……少々お待ちください」
春子は、一度扉を閉めるとチェーンを外す。
再びその扉を押すと、タッパーを持った土屋の全身がよく見えた。
「これ」
「わざわざ、ありがとうございます」
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土屋が、口を開いた。少しでもこの時間を延ばそうとするかのように。
「……あ、あのよぉ……春ちゃんて、此処来る前って何の仕事してたんだ?」
「は?」
突飛な質問に、春子は思わず眉をひそめて聞き返す。
「いや、だって、事務とドライバーの兼務なんて普通しないだろ?」
「私が兼務することで何か、業務に支障を来していますか?」
もし何か思うところがあれば言ってくれ、というと、土屋は首を振る。
「いや、そんな意味じゃなくて、あー…その、個人的興味っつか」
前の仕事、とは何を指すのだろうか。春子がこの名古屋営業所に来る切欠となったのは確実にS&F本社での派遣業務だけれど、まさかそれをそのまま言うつもりはなかった。
だってそれではあまりに露骨に、春子が東海林を追ってきたようではないか。それはなんだか、ムカつく。実際その通りだったとしても、だ。
しかし、春子には、東海林であれば営業マン、土屋であればドライバー、というような、この仕事、といえる仕事は特にない。
「私の持つスキルで出来得る仕事をして来ました」
「スキルって、資格か何かか?」
「はい」
そっか、と、泳ぐ土屋の視線。……他に何か言いたいことでもあるのだろうか? そうも思ったが春子は返事だけすると、一拍置いて、では、と続けた。
「……土屋さん、お裾分け、ありがとうございます」
「あ、いやどう致しまして……」
打ち切られた会話に名残惜しげに返す土屋と、これ以上続けるべき話は春子にはなかった。むしろ、職場の人間との会話であることを考えれば続いた方だろう。
「では、また明日。……おやすみなさい」
「おやすみ……」
閉じられた扉の外で小さく息をついた土屋は、頭を掻いて自分の部屋へと戻っていった。
春子は施錠して台所へ行くと、まだ暖かいタッパーを開ける。中には、仄かに湯気のたつ肉じゃが。
「肉じゃが……か」
もっと豪快な料理を作りそうなのに。意外だ。
そう思って、少し微笑う。
(……あの人は……東海林武は、何が好きなんだろう)
そういえばよく知らない。いつも焼きそばパンを筆頭に色々な惣菜パンをかじりながらパソコンに向かっているけれど。
他でちゃんと、栄養をとっているんだろうか。
温かいご飯が、恋しくならないんだろうか。
私がもし主婦のように東海林武を支えていたら、なんてそんなこと、考えても仕方ないのだろう。春子が、春子自身の意思で選んだのは、あの人が一番苦しんでいる場所であの人の支えになることだったのだから。
だから、春子は今、ぶれるわけには行かない。
ただ。
(もう少し素直になってみても)
いいかもしれない。
肉じゃがをつつきながら、そう思った。
職場内恋愛は、決して御法度ではない。けれど、子会社をまとめきれていない『所長』と入ったばかりの『派遣』のそれは、確実に社内の雰囲気を悪くするだろう。それが判っているから、東海林は何もできない。
どれだけ近くて遠い距離がもどかしかろうが、春子が仕事上での自分の支えに徹するならば東海林は、否、上司である東海林から『派遣とは言えど部下との適切な距離』を保たなければならない。
けれど。
そんな理屈だけで恋愛が成り立つなら。
そんな理屈で成り立つ恋愛ならば。
こんなに焦がれることもないだろう。
大前春子が来て三週間。最近、土屋の春子への態度が目に見えて、優しい。
春子に手酷く『仕事とプライベートを混同するな』と叩かれた男は、懲りることもなく、仕事は仕事、プライベートはプライベート、と割り切ってアプローチしようとしているようだった。
『春ちゃん、仕事帰りに同僚として食事にいかねえか?』
『行きません』
(って、全然割り切ってねーじゃん……)
東海林にとっての救いは、仕事において春子が土屋に何かを頼る必要が一切ないことくらいだ。勿論、社内の連携を考えれば人間関係に難あり、というのは問題なのだけれど、別に春子が土屋を無視している、などということではなくあくまでも普段通りの彼女に相手にされていないというだけ。尤も、それも土屋には堪えていないようだけれど。
正直あのガテン系の趣味がイマサン解らない。
「ってまあ、人の事言えねーか……」
焼きそばパンを頬張りながら、パソコンを弄る東海林は浮かない顔をしていた。というのも今日は、ドライバーの一人が欠勤したため春子がそちらにまわっているのだ。いつもは視線の先に居る彼女が居ない。事務職は三人入っているので業務自体に支障はないのだが、どうにも溜め息を禁じ得ない。とは言え、東海林とて青二才ではない。自身の職務は全うしているわけだけれど。
……けれど。
こんなとき、気軽に彼女を食事に誘ったりできる位置にいる土屋が羨ましいと思ってしまう。その誘いに春子が頷くかどうかは別として、だ。
(……って、んな弱気でも居られないよな……)
東海林は幾度も漏れる溜め息を飲み込んで、ついでに焼きそばパンも口に放り込むと、頬を叩いて気合いをいれた。
お前が頑張ってくれてんのに俺の方が情けない面なんてしてられないもんな。
※※※
東海林が社員のシフトを組んで居ると、一本の電話が入る。表示された番号を見れば、ここ数週間ですっかり見慣れたそれ。思わず表情が緩む。
ガチャリ、と受話器を取った。
「はい、S&F名古屋運輸営業所の東海林がお伺い致します」
『大前です。これから、帰社致します』
「おー、お疲れさん。ってもう六時になるじゃねえか……。最後の納品先は……あー、そっからじゃこっちに帰ってくると七時まわるだろ……直帰していいよって言いたいけど、トラックあるもんなあ……」
『ご心配には及びません。……東海林所長は定時にお帰りになりますか?』
「俺か? いや……金曜日だしな。もう少し粘ってから帰るわ」
『金曜日だから、という理由がなくともあなたは会社に居着いている気がしますが』
「ほっとけ」
『それでは、失礼致します』
「安全運転でな」
『はい』
受話器を置き、東海林は再びパソコン画面に向かう。
(本社じゃあ、あれだけ残業は致しませんっつってた癖に……)
この営業所に来て、春子は定時で帰宅することが少なくなった。ちゃんと休んでいるのか、と不安になることもある。尤も、本人にそれを言ったところ『業務に支障が出ないよう自己管理しています』と返されたが。
(そーゆーことじゃないだろ……)
歯痒い想い。
※※※
(私一人、帰るわけに行かないじゃない)
名古屋の営業所で働くと決めてから、定時での帰宅という決め事を一つ、捨てた。
放っておくといつまでも仕事をしている東海林武のせいだ。春子には早く帰れと発破をかけるくせに自分の腰は上がらない。春子が納品を終えて帰社すると、大抵定時を過ぎた事務所に東海林一人残って残業している。
なんのために一ツ木を通さずに名古屋まで来たと思っているのか。東海林が身体を壊せば、意味がないのに。
それに、東海林を追い詰めているらしい要因に心当たりがある。最近、春子に言い寄る土屋に気を揉んでいるようなのだ。
まあこれは、春子の思い過ごしかも知れないけれど。でも、先日東海林の前で土屋に食事に誘われた時など、酷かった。奴は使っていたホッチキスで、指を打ったのだ。幸い爪を削っただけで傷は浅かったが、職務に支障を来していてどうするのだ。
(まあ、たまたまあのタイミングだっただけで、自意識過剰と言われれば、その通りかも知れないけど)
けれど、そう感じてしまってもおかしくないくらいには、動揺していたように見えたから。
勿論春子は土屋に特別な感情など持ち合わせていないし、食事の誘いもその場で『行きません』と断った。土屋という男は気のいい兄気質の男だとは思うが、その程度。
春子が名古屋に来た理由なんて、ただ一つ、ただ一人のためなのに。
(言葉にしなくちゃ、いけないの? 疎い人)
歯痒い想い。
※※※
二人して互いを慮る日々。
((ああ、でも))
(アイツと居られる時間は)
(あの人の近くに居られる時間は)
(落ち着くなんて)
(嫌いじゃないなんて)
……きっと知る由もないのだろう、と二人、時を同じく別の場所にて、溜めた息を吐き出す日。
どれだけ近くて遠い距離がもどかしかろうが、春子が仕事上での自分の支えに徹するならば東海林は、否、上司である東海林から『派遣とは言えど部下との適切な距離』を保たなければならない。
けれど。
そんな理屈だけで恋愛が成り立つなら。
そんな理屈で成り立つ恋愛ならば。
こんなに焦がれることもないだろう。
大前春子が来て三週間。最近、土屋の春子への態度が目に見えて、優しい。
春子に手酷く『仕事とプライベートを混同するな』と叩かれた男は、懲りることもなく、仕事は仕事、プライベートはプライベート、と割り切ってアプローチしようとしているようだった。
『春ちゃん、仕事帰りに同僚として食事にいかねえか?』
『行きません』
(って、全然割り切ってねーじゃん……)
東海林にとっての救いは、仕事において春子が土屋に何かを頼る必要が一切ないことくらいだ。勿論、社内の連携を考えれば人間関係に難あり、というのは問題なのだけれど、別に春子が土屋を無視している、などということではなくあくまでも普段通りの彼女に相手にされていないというだけ。尤も、それも土屋には堪えていないようだけれど。
正直あのガテン系の趣味がイマサン解らない。
「ってまあ、人の事言えねーか……」
焼きそばパンを頬張りながら、パソコンを弄る東海林は浮かない顔をしていた。というのも今日は、ドライバーの一人が欠勤したため春子がそちらにまわっているのだ。いつもは視線の先に居る彼女が居ない。事務職は三人入っているので業務自体に支障はないのだが、どうにも溜め息を禁じ得ない。とは言え、東海林とて青二才ではない。自身の職務は全うしているわけだけれど。
……けれど。
こんなとき、気軽に彼女を食事に誘ったりできる位置にいる土屋が羨ましいと思ってしまう。その誘いに春子が頷くかどうかは別として、だ。
(……って、んな弱気でも居られないよな……)
東海林は幾度も漏れる溜め息を飲み込んで、ついでに焼きそばパンも口に放り込むと、頬を叩いて気合いをいれた。
お前が頑張ってくれてんのに俺の方が情けない面なんてしてられないもんな。
※※※
東海林が社員のシフトを組んで居ると、一本の電話が入る。表示された番号を見れば、ここ数週間ですっかり見慣れたそれ。思わず表情が緩む。
ガチャリ、と受話器を取った。
「はい、S&F名古屋運輸営業所の東海林がお伺い致します」
『大前です。これから、帰社致します』
「おー、お疲れさん。ってもう六時になるじゃねえか……。最後の納品先は……あー、そっからじゃこっちに帰ってくると七時まわるだろ……直帰していいよって言いたいけど、トラックあるもんなあ……」
『ご心配には及びません。……東海林所長は定時にお帰りになりますか?』
「俺か? いや……金曜日だしな。もう少し粘ってから帰るわ」
『金曜日だから、という理由がなくともあなたは会社に居着いている気がしますが』
「ほっとけ」
『それでは、失礼致します』
「安全運転でな」
『はい』
受話器を置き、東海林は再びパソコン画面に向かう。
(本社じゃあ、あれだけ残業は致しませんっつってた癖に……)
この営業所に来て、春子は定時で帰宅することが少なくなった。ちゃんと休んでいるのか、と不安になることもある。尤も、本人にそれを言ったところ『業務に支障が出ないよう自己管理しています』と返されたが。
(そーゆーことじゃないだろ……)
歯痒い想い。
※※※
(私一人、帰るわけに行かないじゃない)
名古屋の営業所で働くと決めてから、定時での帰宅という決め事を一つ、捨てた。
放っておくといつまでも仕事をしている東海林武のせいだ。春子には早く帰れと発破をかけるくせに自分の腰は上がらない。春子が納品を終えて帰社すると、大抵定時を過ぎた事務所に東海林一人残って残業している。
なんのために一ツ木を通さずに名古屋まで来たと思っているのか。東海林が身体を壊せば、意味がないのに。
それに、東海林を追い詰めているらしい要因に心当たりがある。最近、春子に言い寄る土屋に気を揉んでいるようなのだ。
まあこれは、春子の思い過ごしかも知れないけれど。でも、先日東海林の前で土屋に食事に誘われた時など、酷かった。奴は使っていたホッチキスで、指を打ったのだ。幸い爪を削っただけで傷は浅かったが、職務に支障を来していてどうするのだ。
(まあ、たまたまあのタイミングだっただけで、自意識過剰と言われれば、その通りかも知れないけど)
けれど、そう感じてしまってもおかしくないくらいには、動揺していたように見えたから。
勿論春子は土屋に特別な感情など持ち合わせていないし、食事の誘いもその場で『行きません』と断った。土屋という男は気のいい兄気質の男だとは思うが、その程度。
春子が名古屋に来た理由なんて、ただ一つ、ただ一人のためなのに。
(言葉にしなくちゃ、いけないの? 疎い人)
歯痒い想い。
※※※
二人して互いを慮る日々。
((ああ、でも))
(アイツと居られる時間は)
(あの人の近くに居られる時間は)
(落ち着くなんて)
(嫌いじゃないなんて)
……きっと知る由もないのだろう、と二人、時を同じく別の場所にて、溜めた息を吐き出す日。
何も変わりのない日常。お前が来た、それだけ、たったそれだけなんだ。大前春子。
「東海林所長」
S&F運輸名古屋営業所。
正式な契約を交わしてからは初めての出勤になる大前春子は、本日の仕事内容を東海林に確認するためデスクへと足を向ける。
既にデスクでパソコンを立ち上げていた東海林は、その自分を呼ぶ春子の声で顔を上げた。
本当はこちらに歩いてくる彼女に鼓動が速まっていたのだけれど、おくびにも出さずに、否出さないように春子を見る。
「おぉ、おはよう……大前さん」
「おはようございます」
今まで一人きり、孤独感に苛まれていた東海林にとっては、見知った人間が伴に働いてくれる、それだけで嬉しい。それも、己が悪く思っていない否、それどころか好意を抱いている相手ならば、尚更だ。
「いやぁ、いっつもとっくりとっくり呼んでたもんだからいざ『大前さん』て呼ぶとなんかこっぱずかしいな! 『大前さん!』てな!」
自然と饒舌になるが、大前春子は眉一つ動かさない。目の奥に呆れの色は見えるけれど、それだけだ。
「時間が惜しいので業務の詳細を教えてください」
「相変わらず連れないねぇアンタ……ま、来てくれただけで嬉しいけど……さ」
後半は囁くような小さな声でもって言う。春子にきこえただろうか、と盗み見ると、苛立ったような表情が見下ろしていた。
……ですよね。
「……えーっと、今日は事務の方をやってもらいます。資料は全部、そっちのデスクにあるから」
「わかりました」
軽口を叩くのは諦めて春子に業務の指示を出した東海林は自分も業務に着くために運送の日程の書いてあるボードをとって、事務所の時計を見る。
「八時四十五分……よし、んじゃちょっと外見て来ますんで、なんかあったらー……」
(って、聞いてねーかぁ……)
見れば、春子の他にいる二人の事務員はお喋りしながら珈琲を飲んでいるし、春子は、本社で見たあの至極真面目、というか仏頂面でキーボードをカタカタ叩いている。
「九時には一旦戻ってきます……」
誰からの言葉もなく事務所を後にした東海林は、ドライバー達のメンチを切るような視線の渦を思って、深い溜め息を吐いた。
「……って、んん? なんでとっくりの奴働いてない二人になんも言わなかったんだ?」
始業のチャイムはまだ鳴らない。
※※※
事務兼ドライバーを二人分こなす、と仮契約をしてそのまま福岡へ向かった春子は、帰社すると東海林と本契約についての交渉を行った。
春子は一日の中で事務職とドライバーを兼務する、と粘ったが、結局東海林の『運転に慣れているドライバーでも事故を起こすことがある。俺はアンタを信用してるし信頼もしてるけど、もし事務と兼務なんて慣れないことして、万が一、事故が起きればこの営業所だけじゃない、本社にだって迷惑がかかる』という尤もな意見により、原則的には事務職、どうしても人手が足りないときだけはドライバーに回るという形で落ち着いた。断じて『それに何より、アンタ自身にもしものことがあったら、ホント俺やってけねえよ』という、里中張りの子犬の目に胸がときめいて大人しく従ったわけではない。絶対。動揺だってしていない。
春子が邪念を振り払うようにカタカタキーボードを叩きつけていると、九時の始業のチャイムが鳴った。
ピタリ、と一瞬キーボードを叩く音が止んで、春子はバッと壁に掛かっている時計に目をやった。
(……仕事が溜まってるみたいだったから、九時前に始めただけなんだから)
動揺なんて、していない。
チャイムを合図に外で東海林に文句を垂れながら煙草をふかしていたドライバーがぞろぞろと入ってくる。その筆頭は売り言葉に買い言葉で東海林の下では働けない、と福岡行きをボイコットした土屋。幾ら上司が気に入らなくとも、東海林の態度自体に問題があるわけではない。相性の良し悪しはあってもそれだけで仕事を放棄するわけにはいかない、と一応は考えたらしい彼だった。
一番後ろからくっつくようにして入ってきた東海林は、ホワイトボードのある場所まで行くと、朝礼を始める。いつも大抵この東海林の挨拶をちゃんと聞く者は居ないし、今日もそれは同じだろう。それでも決まりは決まり。
「えー、本日も皆さん宜しくお願いします。あー……今日から新しい派遣さんが入りました、原則的には事務職、人手が足りない時にはドライバーも兼務してもらいます。大前春子さんです。大前さん、何か一言挨拶を、」
「必要ありません」
朝礼中ということで手は休めているが、その顔には『とっとと仕事を始めさせろ』と大きく書かれている。その春子の慇懃な態度に、どこからかヒュウと口笛が聞こえた。東海林は息を吐くがこの女の仕事におけるヒューマンスキルのなさは判っていたこと。特に気にもしない。けれど。
「あ……!」
興味なさげにペットボトルのお茶に口を付けていた土屋が、春子という女の名前にだけは反応した。運送は男社会。必然的に女との接点は少なくなる。そんな中での興味。そして彼の目に映ったのは、つい先日知った顔だった。
「アンタ! うちの隣越してきた人じゃねーか!」
「……!」
途端に春子の表情が『しくじった』とでも言うように歪み、東海林の顔は不安に染まる。
仲間に自慢げに隣に引っ越してきた女の話をする土屋は、確実に生活範囲という意味で距離の近しいこの女に、興味を持ったようだった。
「……では、朝礼を終わります……各自持ち場についてください。えー、大前さんは仕事の前に確認したいことがあるので、応接室までお願いします」
(職権乱用するんじゃない!)
実に迷惑そうにこちらを見る春子に、東海林は不安げな視線を返した。
※※※
「お前、家が土屋さんの隣って……!」
どこで聞かれているかわからないため、小声で春子を問い詰める。何せ惚れた女が他の男に言い寄られるかも知れないのだ。東海林にとっては一大事である。
「厳密には家ではなく部屋です。住む場所がなければ私生活にも業務にも支障が出ますので、近い賃貸住宅を借りましたそれが何か?」
「だからってなんで土屋さんちの隣なんだよ……!」
「あの人の隣だから選んだわけではありません。あの人が此処で働いていることなんて知りませんし、偶々です」
「だ、ってお前……女一人で……」
「別に四方八方男で囲まれているわけではありませんが?」
「……」
春子は、ふっと息を抜くと改めて東海林を見た。こんな気弱な東海林武、本社では見たことがない。否、会社を辞めようとした時には同じような表情を見たが、それだけでこの男が追い込まれているのかがわかる。
(しょうのない人、どれだけ一杯一杯なんだ、全く……)
春子は、ロシア語で、東海林に話し掛けた。もし盗み聞かれていたとして、英語ならばわかる者は多いかもしれないが、ロシア語となれば話は別だろう。ただ、東海林にだけ伝われば良かった。
『私が此処に来たのは誰でもない貴方のため。それは今も、三ヶ月後も変わらない。わかった?』
今はこれしか言えないけれど、見つめた視線は絡んだまま、東海林が頷いたから大丈夫だろう。
「……わかりました」
「では、業務に戻ります」
ガチャリと扉を開ければそこには、なんでもない風体を装った土屋が立っていた。しかし幾ら繕っても、春子を待っていたことは明らかだ。
「あ、大前さん、何かわからないことがあったら何でも俺に! 訊いて良いから、ほら、隣のよしみってやつでさ」
「……」
ノリが東海林と似ている、と思った。
「聞いてっか?」
「仕事とプライベートを混同しないで下さい。隣人であることと同僚であることは全く関係ありません」
バッサリと切り捨ててデスクに戻る春子を、土屋が放心したように見る。
そんな土屋になんとなしに目をやっていた東海林が土屋に『何見てんだよ、アァ?』と因縁を付けられるのは、数秒後。
すみません、と平謝りしながら、東海林はにやけそうになる口元を必死で引き締めた。
ヒューマンスキルゼロの女に、云われた言葉があまりに暖かかったせいだ。
何も変わりのない日常。お前が来た、それだけ、たったそれだけなんだ。大前春子。
(ああ、けれど、たったそれだけの変化が、まるで嵐の予感)
「東海林所長」
S&F運輸名古屋営業所。
正式な契約を交わしてからは初めての出勤になる大前春子は、本日の仕事内容を東海林に確認するためデスクへと足を向ける。
既にデスクでパソコンを立ち上げていた東海林は、その自分を呼ぶ春子の声で顔を上げた。
本当はこちらに歩いてくる彼女に鼓動が速まっていたのだけれど、おくびにも出さずに、否出さないように春子を見る。
「おぉ、おはよう……大前さん」
「おはようございます」
今まで一人きり、孤独感に苛まれていた東海林にとっては、見知った人間が伴に働いてくれる、それだけで嬉しい。それも、己が悪く思っていない否、それどころか好意を抱いている相手ならば、尚更だ。
「いやぁ、いっつもとっくりとっくり呼んでたもんだからいざ『大前さん』て呼ぶとなんかこっぱずかしいな! 『大前さん!』てな!」
自然と饒舌になるが、大前春子は眉一つ動かさない。目の奥に呆れの色は見えるけれど、それだけだ。
「時間が惜しいので業務の詳細を教えてください」
「相変わらず連れないねぇアンタ……ま、来てくれただけで嬉しいけど……さ」
後半は囁くような小さな声でもって言う。春子にきこえただろうか、と盗み見ると、苛立ったような表情が見下ろしていた。
……ですよね。
「……えーっと、今日は事務の方をやってもらいます。資料は全部、そっちのデスクにあるから」
「わかりました」
軽口を叩くのは諦めて春子に業務の指示を出した東海林は自分も業務に着くために運送の日程の書いてあるボードをとって、事務所の時計を見る。
「八時四十五分……よし、んじゃちょっと外見て来ますんで、なんかあったらー……」
(って、聞いてねーかぁ……)
見れば、春子の他にいる二人の事務員はお喋りしながら珈琲を飲んでいるし、春子は、本社で見たあの至極真面目、というか仏頂面でキーボードをカタカタ叩いている。
「九時には一旦戻ってきます……」
誰からの言葉もなく事務所を後にした東海林は、ドライバー達のメンチを切るような視線の渦を思って、深い溜め息を吐いた。
「……って、んん? なんでとっくりの奴働いてない二人になんも言わなかったんだ?」
始業のチャイムはまだ鳴らない。
※※※
事務兼ドライバーを二人分こなす、と仮契約をしてそのまま福岡へ向かった春子は、帰社すると東海林と本契約についての交渉を行った。
春子は一日の中で事務職とドライバーを兼務する、と粘ったが、結局東海林の『運転に慣れているドライバーでも事故を起こすことがある。俺はアンタを信用してるし信頼もしてるけど、もし事務と兼務なんて慣れないことして、万が一、事故が起きればこの営業所だけじゃない、本社にだって迷惑がかかる』という尤もな意見により、原則的には事務職、どうしても人手が足りないときだけはドライバーに回るという形で落ち着いた。断じて『それに何より、アンタ自身にもしものことがあったら、ホント俺やってけねえよ』という、里中張りの子犬の目に胸がときめいて大人しく従ったわけではない。絶対。動揺だってしていない。
春子が邪念を振り払うようにカタカタキーボードを叩きつけていると、九時の始業のチャイムが鳴った。
ピタリ、と一瞬キーボードを叩く音が止んで、春子はバッと壁に掛かっている時計に目をやった。
(……仕事が溜まってるみたいだったから、九時前に始めただけなんだから)
動揺なんて、していない。
チャイムを合図に外で東海林に文句を垂れながら煙草をふかしていたドライバーがぞろぞろと入ってくる。その筆頭は売り言葉に買い言葉で東海林の下では働けない、と福岡行きをボイコットした土屋。幾ら上司が気に入らなくとも、東海林の態度自体に問題があるわけではない。相性の良し悪しはあってもそれだけで仕事を放棄するわけにはいかない、と一応は考えたらしい彼だった。
一番後ろからくっつくようにして入ってきた東海林は、ホワイトボードのある場所まで行くと、朝礼を始める。いつも大抵この東海林の挨拶をちゃんと聞く者は居ないし、今日もそれは同じだろう。それでも決まりは決まり。
「えー、本日も皆さん宜しくお願いします。あー……今日から新しい派遣さんが入りました、原則的には事務職、人手が足りない時にはドライバーも兼務してもらいます。大前春子さんです。大前さん、何か一言挨拶を、」
「必要ありません」
朝礼中ということで手は休めているが、その顔には『とっとと仕事を始めさせろ』と大きく書かれている。その春子の慇懃な態度に、どこからかヒュウと口笛が聞こえた。東海林は息を吐くがこの女の仕事におけるヒューマンスキルのなさは判っていたこと。特に気にもしない。けれど。
「あ……!」
興味なさげにペットボトルのお茶に口を付けていた土屋が、春子という女の名前にだけは反応した。運送は男社会。必然的に女との接点は少なくなる。そんな中での興味。そして彼の目に映ったのは、つい先日知った顔だった。
「アンタ! うちの隣越してきた人じゃねーか!」
「……!」
途端に春子の表情が『しくじった』とでも言うように歪み、東海林の顔は不安に染まる。
仲間に自慢げに隣に引っ越してきた女の話をする土屋は、確実に生活範囲という意味で距離の近しいこの女に、興味を持ったようだった。
「……では、朝礼を終わります……各自持ち場についてください。えー、大前さんは仕事の前に確認したいことがあるので、応接室までお願いします」
(職権乱用するんじゃない!)
実に迷惑そうにこちらを見る春子に、東海林は不安げな視線を返した。
※※※
「お前、家が土屋さんの隣って……!」
どこで聞かれているかわからないため、小声で春子を問い詰める。何せ惚れた女が他の男に言い寄られるかも知れないのだ。東海林にとっては一大事である。
「厳密には家ではなく部屋です。住む場所がなければ私生活にも業務にも支障が出ますので、近い賃貸住宅を借りましたそれが何か?」
「だからってなんで土屋さんちの隣なんだよ……!」
「あの人の隣だから選んだわけではありません。あの人が此処で働いていることなんて知りませんし、偶々です」
「だ、ってお前……女一人で……」
「別に四方八方男で囲まれているわけではありませんが?」
「……」
春子は、ふっと息を抜くと改めて東海林を見た。こんな気弱な東海林武、本社では見たことがない。否、会社を辞めようとした時には同じような表情を見たが、それだけでこの男が追い込まれているのかがわかる。
(しょうのない人、どれだけ一杯一杯なんだ、全く……)
春子は、ロシア語で、東海林に話し掛けた。もし盗み聞かれていたとして、英語ならばわかる者は多いかもしれないが、ロシア語となれば話は別だろう。ただ、東海林にだけ伝われば良かった。
『私が此処に来たのは誰でもない貴方のため。それは今も、三ヶ月後も変わらない。わかった?』
今はこれしか言えないけれど、見つめた視線は絡んだまま、東海林が頷いたから大丈夫だろう。
「……わかりました」
「では、業務に戻ります」
ガチャリと扉を開ければそこには、なんでもない風体を装った土屋が立っていた。しかし幾ら繕っても、春子を待っていたことは明らかだ。
「あ、大前さん、何かわからないことがあったら何でも俺に! 訊いて良いから、ほら、隣のよしみってやつでさ」
「……」
ノリが東海林と似ている、と思った。
「聞いてっか?」
「仕事とプライベートを混同しないで下さい。隣人であることと同僚であることは全く関係ありません」
バッサリと切り捨ててデスクに戻る春子を、土屋が放心したように見る。
そんな土屋になんとなしに目をやっていた東海林が土屋に『何見てんだよ、アァ?』と因縁を付けられるのは、数秒後。
すみません、と平謝りしながら、東海林はにやけそうになる口元を必死で引き締めた。
ヒューマンスキルゼロの女に、云われた言葉があまりに暖かかったせいだ。
何も変わりのない日常。お前が来た、それだけ、たったそれだけなんだ。大前春子。
(ああ、けれど、たったそれだけの変化が、まるで嵐の予感)