漫画・小説・演劇・ドラマ、ジャンルも媒体も男も女も関係なく、腐った可愛そうな頭の人間が雑多に書き散らすネタ帳です。 ていうかあれだ。サイトに載せる前の繋ぎみたいな。
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一郎が襖を開けると、一組の布団、枕が仲良く二つ並べられたそれに堤芯子が胡座をかいていた。
結局温泉には入らずに家の風呂を使ったため、まだしっとり濡れたままの髪を乱暴に拭き続けていた芯子が、襖の紙擦れの音にこちらを見やる。
「おそかったな?」
アンタの母ちゃんに、これ二人で使って下さいね、って言われたんだけど?
指されたのは芯子が下に敷いている一組の布団で、これを二人で使え、は一郎も言われた。枕はあるのに布団はないってのも面白い、と呟く芯子に、一郎が深いため息を吐く。
正直襖をあけた時に彼女が元婚約者ママ粛々と座って居たらどうしよう、とドキドキしていた。この一ヶ月で堤芯子というそれこそありのままの人間を知ったというのに。期待すればしただけ裏切られるというのに。例えば過去だとか、最近でいうならあの時とか、あの時とかッ! 否、期待なんか、していないけれど!
一郎は思い出した諸々にムカムカとしながらも、それをぐっと耐え込んで、布団に座る芯子に手を差し出した。芯子は訝しげにその手を見る。
「何」
「枕一つ寄越せ」
向こうでアイツ等と一緒に寝るから、と面倒くさそうに言う一郎に、芯子は僅かに口角を上げる。
「あっれーぇ?」
「なんだ、早く枕寄越せ」
言われた言葉に従うように、芯子は枕を一つ取り上げると、けれどそれを手渡すでも投げるでもなく、前に抱えた。そして、可愛らしく小首を傾げると詰まらなそうに唇を尖らせる。
こんな女、か、わ、い、く、な、ん、か、と思うのに、一郎の単純な心臓は早鐘を打つのだからなんだかもう、自分で自分が情けない。
ああ、だって、可愛い。四十も間近の癖に、可愛いのだ。
「……なぁに、角松さん、せっかくお母様がお布団ご用意して下さったのに、あっちでお休みになるんですかぁ? ヨーコ寂しい……」
「バッ……!? 馬鹿言ってないで早く寄越せッ」
この、男タラシが! とうとう叫ぶようにそう言うと、柔和に細められていた芯子の眦がキリリと上がった。強気の瞳がガッツリ一郎を睨む。ちょっとビビる。
「……寄越せ寄越せ言ってないで枕の一つくらい自分で持って、け、っつーの!」
ひっつかまれた枕は、一郎の顔目掛けて綺麗に飛び、その顔面を強か叩いた。
「ブッ……おいこら投げるな!」
「あーもーっさいな、とっとと出、て……ると寒いから、早くお布団入りましょ、ね? シ……一朗さん」
「あ? お前何言って、」
突然声色と喋り方が変わった。角松は、コイツ頭大丈夫か、と訝しむが、芯子が、自分の後ろの誰かに小さく会釈をしたのを見て、動きを止める。誰に? そんなこと、決まっている。
「一朗、明日も早いんだから、早く寝なよ?」
母であった。
途端に、角松の挙動は不振になる。当然だ。普段のように罵倒し合うことは、即ち自分と婚約者の仲を隠し通せなくなること。避けねばならない第一優先事項なのだから。
「か、あちゃ、お、おお、寝るわ! 寝よ寝よ、な、洋子!」
母親の前で『自分の女』とそそくさ一つの布団に入るのもどうかと思うが仕方ない。
「本当に仲いいわねえ」
「はぁい(もっとそっち行け!)」
「お、お休みぃ~(これ以上行けるか馬鹿! ギリギリだわ! お前こそもっとそっち寄れ!)」
小声の言い合いを『もっとこっちに来て』『これ以上行けるか馬鹿! 母親の前だぞ!』とでも取ったのか? それじゃ、私もアテられちゃう前に休みましょ。と、何を想像したのかわからない母は、お休みなさい、と襖を閉めた。
遠ざかる足音、布団の中の二人は、仲良く溜め息を吐き出す。
「で?」
「あ?」
「一緒に寝るわけ?」
「寝るか馬鹿!」
*
*
*
「あっちで寝るんじゃないんですか?」
「出来るわけねえだろ」
(うろ覚え)
結局温泉には入らずに家の風呂を使ったため、まだしっとり濡れたままの髪を乱暴に拭き続けていた芯子が、襖の紙擦れの音にこちらを見やる。
「おそかったな?」
アンタの母ちゃんに、これ二人で使って下さいね、って言われたんだけど?
指されたのは芯子が下に敷いている一組の布団で、これを二人で使え、は一郎も言われた。枕はあるのに布団はないってのも面白い、と呟く芯子に、一郎が深いため息を吐く。
正直襖をあけた時に彼女が元婚約者ママ粛々と座って居たらどうしよう、とドキドキしていた。この一ヶ月で堤芯子というそれこそありのままの人間を知ったというのに。期待すればしただけ裏切られるというのに。例えば過去だとか、最近でいうならあの時とか、あの時とかッ! 否、期待なんか、していないけれど!
一郎は思い出した諸々にムカムカとしながらも、それをぐっと耐え込んで、布団に座る芯子に手を差し出した。芯子は訝しげにその手を見る。
「何」
「枕一つ寄越せ」
向こうでアイツ等と一緒に寝るから、と面倒くさそうに言う一郎に、芯子は僅かに口角を上げる。
「あっれーぇ?」
「なんだ、早く枕寄越せ」
言われた言葉に従うように、芯子は枕を一つ取り上げると、けれどそれを手渡すでも投げるでもなく、前に抱えた。そして、可愛らしく小首を傾げると詰まらなそうに唇を尖らせる。
こんな女、か、わ、い、く、な、ん、か、と思うのに、一郎の単純な心臓は早鐘を打つのだからなんだかもう、自分で自分が情けない。
ああ、だって、可愛い。四十も間近の癖に、可愛いのだ。
「……なぁに、角松さん、せっかくお母様がお布団ご用意して下さったのに、あっちでお休みになるんですかぁ? ヨーコ寂しい……」
「バッ……!? 馬鹿言ってないで早く寄越せッ」
この、男タラシが! とうとう叫ぶようにそう言うと、柔和に細められていた芯子の眦がキリリと上がった。強気の瞳がガッツリ一郎を睨む。ちょっとビビる。
「……寄越せ寄越せ言ってないで枕の一つくらい自分で持って、け、っつーの!」
ひっつかまれた枕は、一郎の顔目掛けて綺麗に飛び、その顔面を強か叩いた。
「ブッ……おいこら投げるな!」
「あーもーっさいな、とっとと出、て……ると寒いから、早くお布団入りましょ、ね? シ……一朗さん」
「あ? お前何言って、」
突然声色と喋り方が変わった。角松は、コイツ頭大丈夫か、と訝しむが、芯子が、自分の後ろの誰かに小さく会釈をしたのを見て、動きを止める。誰に? そんなこと、決まっている。
「一朗、明日も早いんだから、早く寝なよ?」
母であった。
途端に、角松の挙動は不振になる。当然だ。普段のように罵倒し合うことは、即ち自分と婚約者の仲を隠し通せなくなること。避けねばならない第一優先事項なのだから。
「か、あちゃ、お、おお、寝るわ! 寝よ寝よ、な、洋子!」
母親の前で『自分の女』とそそくさ一つの布団に入るのもどうかと思うが仕方ない。
「本当に仲いいわねえ」
「はぁい(もっとそっち行け!)」
「お、お休みぃ~(これ以上行けるか馬鹿! ギリギリだわ! お前こそもっとそっち寄れ!)」
小声の言い合いを『もっとこっちに来て』『これ以上行けるか馬鹿! 母親の前だぞ!』とでも取ったのか? それじゃ、私もアテられちゃう前に休みましょ。と、何を想像したのかわからない母は、お休みなさい、と襖を閉めた。
遠ざかる足音、布団の中の二人は、仲良く溜め息を吐き出す。
「で?」
「あ?」
「一緒に寝るわけ?」
「寝るか馬鹿!」
*
*
*
「あっちで寝るんじゃないんですか?」
「出来るわけねえだろ」
(うろ覚え)
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「ね、シングルパー……」
「その呼び方止めろ!」
「いちいち叫ばないでくれる……アタマに響く……」
「……なんだ」
ずっと腰を折ったままの体勢でいる角松の頬をもう一度両手で包む。
「アリガトな」
「なんのこ、」
また、最後まで言わせずに、少し頭を浮かせて唇を塞ぐ。
今度は、押し付けるだけではなく、合わせた唇の間から舌も押し入れて、深く。
どうしようかと思案するようだった角松も、そろりと差し出してくる。優しくて、だけど深く。こんなキスも久しぶりだ。
唇を離した。
「……あったまったか……?」
「ばーか……」
まだ寒いっちゅーの。
芯子は、両腕を角松の腰のベルトに回し、えい、と投げて自分の隣に転がした。
「うぉっ! おっまえどこにんな力が……」
折っていた腰をさすりながら、狭いシングルベッドの上でそう呟いた角松が固まる。二人が密着して、少し幅が余る程度の広さしかないそこで、芯子がすり寄ったのだ。
「……いちろーさん」
「え」
「添い寝、して?」
柔らかな身体がぴったりと角松に合わさって、外されたボタンの隙間から芯子の吐息が掛かった。
硬直している角松の胸に縋るように、身を縮こませた芯子が、一つぶるりと震える。
「……」
腕にその震えを感じた角松は、掛け布団を二人に掛かるように直すとそうっと芯子の身体を抱き寄せた。
「熱いな」
「アタシは寒ぃの」
「……今だけだ」
「ん……」
「寝ちまえ、もう」
「……おきるまで、放さないでて」
「わーかったから」
言葉と同時に少し強く抱きしめられて、速く脈打つ角松の心臓の音を聴きながら芯子は目を閉じた。
(今だけだ)
寒いのも、温もりが欲しいと思うのも、誰でもない角松一郎に抱きしめていて欲しいのも、今だけ。
ただ、弱ってる時に傍にいたから、縋ってるだけ。治ったら、今この時を忘れるって約束するから、だから。
-芯子さん、好きです-
(今、この間だけ、)
真摯な告白を、芯子は今だけ頭からそっと追いやって、寒さごと包んでくれるひどく優しく暖かな腕の中、芯子は微睡み、寝息を立てた。
角松は、穏やかに寝入る芯子の髪を撫でて思案するようにじっとその女を見つめた。
朝から体調を崩しているのはわかっていた。覇気がなかったし、いつも以上に集中力も欠けていた。まさか、いきなり倒れるとは思わなかったが、調査にも連れ出して無理をさせたとも思う。ただ、ふとした瞬間に何かを思い詰めたように遠くなる視線を、どうしても見ていられなかったのだ。
自分は二人には関係ないと頭では理解しているのに、工藤優の告白はあまりに衝撃的だった。あれから角松の睡眠時間も削られている。『洋子』相手なら素直になれるのに『堤芯子』だと思うとどうにも見栄を張ってしまう。まるで子供だ。
「……芯子」
今だけだと角松は縋る芯子にそう言ったが、その言葉は、自分に向けた言葉でもある。コイツが素直に俺に縋るのは、きっと今だけ。
……芯子が寝ている今なら、俺も素直になれるだろうか。
「……俺さ、騙されても、馬鹿にされても、」
意識が薄れて、自分も寝そうだ。久しぶりにいい夢が見られるだろうか。
角松は、唇を芯子の耳に寄せる。
「……やっぱお前のこと、好きだわ」
『ん~マジで?』そんな反応一つ返らない、独白めいた告白。
これはただの自己満足で、云うつもりのない角松の秘密。
そして、云われなければ知るつもりのない、芯子の秘密。
起きればいつもの通り、変わらない二人が在る筈で、だから、今だけ。
合い言葉のように心でなぞると、二人は互いに、いい夢を、と願うのだった。
「その呼び方止めろ!」
「いちいち叫ばないでくれる……アタマに響く……」
「……なんだ」
ずっと腰を折ったままの体勢でいる角松の頬をもう一度両手で包む。
「アリガトな」
「なんのこ、」
また、最後まで言わせずに、少し頭を浮かせて唇を塞ぐ。
今度は、押し付けるだけではなく、合わせた唇の間から舌も押し入れて、深く。
どうしようかと思案するようだった角松も、そろりと差し出してくる。優しくて、だけど深く。こんなキスも久しぶりだ。
唇を離した。
「……あったまったか……?」
「ばーか……」
まだ寒いっちゅーの。
芯子は、両腕を角松の腰のベルトに回し、えい、と投げて自分の隣に転がした。
「うぉっ! おっまえどこにんな力が……」
折っていた腰をさすりながら、狭いシングルベッドの上でそう呟いた角松が固まる。二人が密着して、少し幅が余る程度の広さしかないそこで、芯子がすり寄ったのだ。
「……いちろーさん」
「え」
「添い寝、して?」
柔らかな身体がぴったりと角松に合わさって、外されたボタンの隙間から芯子の吐息が掛かった。
硬直している角松の胸に縋るように、身を縮こませた芯子が、一つぶるりと震える。
「……」
腕にその震えを感じた角松は、掛け布団を二人に掛かるように直すとそうっと芯子の身体を抱き寄せた。
「熱いな」
「アタシは寒ぃの」
「……今だけだ」
「ん……」
「寝ちまえ、もう」
「……おきるまで、放さないでて」
「わーかったから」
言葉と同時に少し強く抱きしめられて、速く脈打つ角松の心臓の音を聴きながら芯子は目を閉じた。
(今だけだ)
寒いのも、温もりが欲しいと思うのも、誰でもない角松一郎に抱きしめていて欲しいのも、今だけ。
ただ、弱ってる時に傍にいたから、縋ってるだけ。治ったら、今この時を忘れるって約束するから、だから。
-芯子さん、好きです-
(今、この間だけ、)
真摯な告白を、芯子は今だけ頭からそっと追いやって、寒さごと包んでくれるひどく優しく暖かな腕の中、芯子は微睡み、寝息を立てた。
角松は、穏やかに寝入る芯子の髪を撫でて思案するようにじっとその女を見つめた。
朝から体調を崩しているのはわかっていた。覇気がなかったし、いつも以上に集中力も欠けていた。まさか、いきなり倒れるとは思わなかったが、調査にも連れ出して無理をさせたとも思う。ただ、ふとした瞬間に何かを思い詰めたように遠くなる視線を、どうしても見ていられなかったのだ。
自分は二人には関係ないと頭では理解しているのに、工藤優の告白はあまりに衝撃的だった。あれから角松の睡眠時間も削られている。『洋子』相手なら素直になれるのに『堤芯子』だと思うとどうにも見栄を張ってしまう。まるで子供だ。
「……芯子」
今だけだと角松は縋る芯子にそう言ったが、その言葉は、自分に向けた言葉でもある。コイツが素直に俺に縋るのは、きっと今だけ。
……芯子が寝ている今なら、俺も素直になれるだろうか。
「……俺さ、騙されても、馬鹿にされても、」
意識が薄れて、自分も寝そうだ。久しぶりにいい夢が見られるだろうか。
角松は、唇を芯子の耳に寄せる。
「……やっぱお前のこと、好きだわ」
『ん~マジで?』そんな反応一つ返らない、独白めいた告白。
これはただの自己満足で、云うつもりのない角松の秘密。
そして、云われなければ知るつもりのない、芯子の秘密。
起きればいつもの通り、変わらない二人が在る筈で、だから、今だけ。
合い言葉のように心でなぞると、二人は互いに、いい夢を、と願うのだった。
酷く体調が悪い。風邪をひいたようだ。
目の前がぐらぐらと揺れて、芯子はふらりとよろめいた。
思えば、昨日から少し背筋に寒気が走るような感覚はあったのだ。けれど、テレビの気象情報曰わく今年一番の寒さ、であったから、そのせいで肌寒く感じただけだと思っていた。
秘密の睦言
いつものように検査庁へ赴き、椅子にどっかり腰を据えると気怠い身体をデスクに身体を預けた。すると、伸びて早々に堤芯子、金田鉄男、工藤優に声が掛かる。
「今日は--」
招集をかけてきた相手、角松一郎が何かを話している。今日はどこそこの、なんとかというなんたらの調査を、云々。耳に入らない。寒い。デスクに突っ伏したままで居ると「寝てるんじゃない」と誰かに言われた。角松か、金田か? 言い方からして工藤ではない。わからないけれど、その言葉に芯子はただ一度息を重く吐き出し、立ち上がる。
「行くよ……」
「聞いてなかったのか」
角松に、呆れたようにそう言われた芯子は思い切り苛立った顔をそちらに向ける。
「なに」
「調査は昼過ぎからだ」
……。
「あっ、そ」
どうにも調子が、あがらない。
※※※
今回の調査対象は所謂「ハコモノ」。着いて行った芯子は、しかし実際に何か不正らしきものが出るまでまるで役立たずだ。椅子にもたれ掛かり、一応形だけは電卓を打つがそれも意味はない。
ぐるぐる、ぐるぐる、意識は冴えているが景色が一枚フィルターを挟んだようにふわふわとして現実味を帯びない。寒い。カタカタと電卓を打ち鳴らす音が止んだ。書類を集める、紙の擦れる音がする。
「……おわり、か?」
「ああ。とりあえず書面上怪しいところはなかったな。……よし」
書類をまとめた角松が、出るぞ、と促した。
「それじゃあ、俺はこれを上に出してから帰るから、みんな直帰していいから」
片手に書類の入ったバインダー、片手に鞄を携えた角松がそう言って検査庁へ踵を返そうとするのを、工藤が引き留める。
「あ、それもし僕でいいなら提出して来ます。デスクに携帯忘れちゃって、取りに行くので」
「や、でも」
提出は誰でも、否、コイツでなければ誰でも良いんだけれど上司としてそれは悪い、と首を振る角松に、金田も言う。
「俺も一度庁舎に戻りますから、補佐こそ直帰して下さい。最近忙しくて録に寝てないんでしょう」
二人に、後は任せてください、と言われた角松はそこで折れた。
「……じゃあ預けていいか?」
「はい」
バインダーを受け取った工藤がどこか上の空の芯子を見やる。
「芯子さんは……」
「ん? ……アーターシーは、帰、る」
危ない。ほうけていた。芯子は取り繕うようにいつもを装って、少し怠そうに歩く。
「んじゃ、お疲れさん」
後ろから、お疲れ様でした! の声、それから、んじゃあ俺も帰るな、悪いけど宜しく頼むわ。が聞こえた。
路地にふらりと入り込んだ芯子は、その壁に背中を預けるようにずるずるとしゃがみこんだ。
気持ち悪い。吐きそうだ。唾液の量が半端じゃない。はあ、はあ、と荒い息を地面に向かって吐き出す。
(こりゃカンッペキ風邪ひいたな)
検査庁の面々には恐らく気付かれずに済んだ筈だ。少し休めば、家まで歩いて帰れない距離ではない。遠くはあるが、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながらも立ち上がる気力が出ずに身体を折り曲げていた芯子の前に、影が立った。
「何してんだ、お前」
「……」
角松だった。
よろよろと見上げると、長身が此方を見下ろしている。なんて間の悪い男だろうか。
「……体調、悪いのか」
「べ……っつにぃ、わるくなんか……」
ない、よっ! 勢いで立ち上がるが、頭が揺れる。途端にこみ上げる吐き気。それをなんとかやり過ごして、壁伝いに歩きだす。
「ってあからさまに悪いだろ!」
「……っさいな……」
寒い、寒い、寒い。
「さむ……」
うっかり、言葉に出してしまった。
とはいえ元々芯子の今日の格好はいつもの長袖のシャツにジャケットなので、別段おかしい言葉ではない。ごまかすように、「きょーはさっみぃなあ」と呟いて、アンタも風邪ひかないうちに帰んな、と、そちらを見もせず手を振ってやると、その手が、掴まれた。
「寒い? 手はこんなに熱いのにか?」
「……触んなっつーの……」
言いながらも振りほどく力もない。折れそうになる膝に、舌を打つ。
「タクシー呼んでやるから、」
それに乗って帰れ。
角松がその台詞を言い切ったのと、芯子が地面に崩折れたのはほぼ同時だった。
「き……もち、わ……」
意識がブラックアウトする。その、寸前に、芯子の耳に「しっかりしろ、芯子」という聞き慣れた声が聞こえた。
(アタシの、名前)
洋子ではなく、堤芯子を呼んでいる声。
※※※
(芯子さん、好きです)
そんな声が頭に響いて芯子は目を覚ました。
またこの夢かと思いながらそろそろと目を開けば、そこは、知らない天井。周りを見ると、それ程物はなく整理された棚だの何だのがあるだけの簡素な部屋。部屋や調度品には見覚えはないのでここは取り乱すべきかも知れないけれど、寝かされたベッドの匂いだけは知っていた。
(ここは……)
ジャケットだけは脱がされていて、暖かな布団が芯子をくるんでいる。序でに、アイツの香りも。オッサンくせ、と内心悪態をつきながらも出ようとしないのは、寒いからだ。決して心地良いからではない。筈。
ガチャリとドアが開いた。
「起きたか?」
角松が聞きながら入ってくる。
「……引っ越したんだ?」
「ん? いや、一回もしてないぞ」
「うーそ、だってアタシこの部屋知らない」
し、ベッドだって変わってる、と言いながら身を起こす。角松が洗面器とタオルを持っているのが見えた。
「家具は替えたし寝る部屋も替えたけど越してはない……てかお前、いきなり倒れんじゃねーよ」
倒れる。そうか、倒れたのか、それでコイツの家にいるのか。
「アンタんちの近くだったんだ」
「……お前の実家までタクシー乗せようかと思ったけど、とりあえず一回休ませたほうが良いかと思ったんだよ」
安心しろ、ジャケットしか脱がしてないから、と別に此方が気にもしていないことをポツリと呟いた角松を見つめる。
(変わんねーな、お人好し)
ベッドサイドに持っていたものを置いて、洗面器からコップを出すとそれを芯子に寄越す。黙って受け取った芯子は、入っていた水をゆっくりと飲み込んだ。
「落ち着いたか、少しは」
「まーだちょっと気持ち悪いけど、大分、な」
コップを返してふーっと長く息をした芯子の額に、角松が手の甲を押し付ける。
「熱いな」
体温計、見つからないから、と言いながら今度は少し汗ばんだ手で芯子の頬を包むようにして、やっぱり熱い、と眉間に皺を寄せた。
「もう少し休んでろ。帰りはタクシー呼ぶから」
「……」
角松の手が芯子の身体をベッドに横たえてから、離れる。体温が、温もりが、離れる。
イヤだな、そう思ったのは、芯子だった。
置いてくな。ぐるぐるする。芯子さん、好きです。優はそう言った。じゃあ、アタシは誰が好きなんだろか。コイツは、アタシの事が、好きなんだろーか。騙されて、捨てられた癖に騙した相手を甲斐甲斐しく世話する。誰にでも?
イヤだな。
「すっごい、寒い」
「寒いか? じゃあもう一枚ふと……」
言い終える前に、するりと伸びた両の手が角松のYシャツを勢いよく引いた。
「うぉっ!」
突然前に引き倒されて、思わず声が出る。間一髪、芯子の頭を挟んでベッドに手を付き、彼女に身を叩きつけて押しつぶすことだけは避けた角松は、代わりに芯子と直近で面を突き合わせることになる。ほぼゼロ距離に不覚にも心臓は早鐘を打った。
何考えてんだこの女は。表情からそう読み取れる。
「……離せ」
「今なら、逃げらんないな、アタシ」
何をわけのわからないことを、と眉を顰めた角松のシャツを更に引いて、今度こそ体勢を崩したそいつに、その唇に、芯子は自分の唇を押し当てた。
ただ合わせるだけのその行為が、ひどく落ち着く。人の、角松の温度の心地よさに吐き気が嘘のように収まっていく。
いつの間にか、芯子の手はシャツを離れて角松の頬を包んでいた。
そっと唇を離す。
「……ほら、な?」
「な、じゃないだろうが……!」
されるがままになっていた角松が至近距離で叫ぶが、芯子は構わない。
「寒いん、だ、って」
計ってこそいないが恐らくは熱に浮かされた頭。もう何かを明瞭に考えることもままならない。
身体は昔嗅ぎ慣れた匂いに熱くなるのに、内側がただ、寒い。
「ていうかお前、熱……」
「あるかも、な」
「……かも、じゃない。あるぞ、絶対」
感染す気か、と言われて、芯子が笑った。
「あっためてよ、シングルパー」
「布団入ってろ、その内あったくなる」
「ちーがう……」
アンタが、あっためて。
うまく動かない怠い指先でネクタイを外し、ベッドの下に放る。次いで上から一つ、一つ、ボタンを外す。
「昔さ、よくこーやって外してやったね」
「……何考えてんだ、お前」
何考えてんだ、もないだろう。男女がベッドで裸でする事なんか決まりきってる。嫌なら逃げれば良いのだ。芯子が摘んでいるのはシャツのボタンだけだし、乗り上げる格好なのは角松の方なのだから。逃げないのは、風邪っぴきでも抱く気があるってこと、だろ?
「アンタ、しんぞーの音ヤッバイよ?」
「ほっとけ」
「その気んなったか?」
なったんなら、後はアンタが脱いで、アンタが脱がして。
性急に事を進めようとする芯子に、角松が溜め息をついた。
「なるか馬鹿!」
「……やっぱりタマナシなのか」
「違う! そうじゃなくて、お前……」
角松が真剣な目をしている。
「何」
「お前、何焦ってんだ」
「焦る?」
焦るってなんだ。なんにも焦っちゃいない。ああ、がっついてるってコト? だって、無性に、体温が恋しい。寒いから。
「……工藤に告白されてから、お前ちゃんと寝てんのか」
「……」
「体調崩すくらい考えてるんだとしたら、」
だとしたら何。
-補佐こそ直帰して下さい。最近忙しくて録に寝てないんでしょう-
金田の言葉が芯子の脳裏をよぎる。
「人のこと、言えんのか? アンタこそ碌々寝てないんだろ」
詰まった角松に、芯子が鼻を鳴らす。睦言の距離なのに、何故説教されねばならないのか。やっぱりアタシはこんなシングルパー好きじゃない。心中で結論づけた芯子を、角松の瞳がじっと見た。
そして、ゆっくりと、言う。
「ああ、ここ二、三日寝てない。工藤がお前に告白したとき、正直すごく動揺したからな、自分でも驚いた」
「……なんだそれ」
なんだその理由。
「でも、それは俺の問題でお前と工藤は関係ないことだ」
「……」
「お前はお前が思うようにすればいい。焦るな。工藤だってお前のこと困らせたいわけじゃないだろ」
アタシは、誰が好きなんだろうか。
アンタは、アタシが好きなんだろうか。
……もしも、アンタがアタシを好きなら、関係なくはないんじゃないか?
「アンタ寝てないの、忙しいからじゃないわけ?」
「え……あ、いや、忙しい! なんせ補佐だからな! 別にお前と工藤がどうなるかとかそんなことはどーでもいいんだ!」
真剣な様子はどこに行ったのか。角松は途端に顔を赤らめてどうでもいいどうでもいいを叫ぶ。その様を見て芯子がふっと笑った。
焦るな、と言われた言葉に落ち着いた。誰も気づかない自分に気付いてくれる人がいる。
目の前がぐらぐらと揺れて、芯子はふらりとよろめいた。
思えば、昨日から少し背筋に寒気が走るような感覚はあったのだ。けれど、テレビの気象情報曰わく今年一番の寒さ、であったから、そのせいで肌寒く感じただけだと思っていた。
秘密の睦言
いつものように検査庁へ赴き、椅子にどっかり腰を据えると気怠い身体をデスクに身体を預けた。すると、伸びて早々に堤芯子、金田鉄男、工藤優に声が掛かる。
「今日は--」
招集をかけてきた相手、角松一郎が何かを話している。今日はどこそこの、なんとかというなんたらの調査を、云々。耳に入らない。寒い。デスクに突っ伏したままで居ると「寝てるんじゃない」と誰かに言われた。角松か、金田か? 言い方からして工藤ではない。わからないけれど、その言葉に芯子はただ一度息を重く吐き出し、立ち上がる。
「行くよ……」
「聞いてなかったのか」
角松に、呆れたようにそう言われた芯子は思い切り苛立った顔をそちらに向ける。
「なに」
「調査は昼過ぎからだ」
……。
「あっ、そ」
どうにも調子が、あがらない。
※※※
今回の調査対象は所謂「ハコモノ」。着いて行った芯子は、しかし実際に何か不正らしきものが出るまでまるで役立たずだ。椅子にもたれ掛かり、一応形だけは電卓を打つがそれも意味はない。
ぐるぐる、ぐるぐる、意識は冴えているが景色が一枚フィルターを挟んだようにふわふわとして現実味を帯びない。寒い。カタカタと電卓を打ち鳴らす音が止んだ。書類を集める、紙の擦れる音がする。
「……おわり、か?」
「ああ。とりあえず書面上怪しいところはなかったな。……よし」
書類をまとめた角松が、出るぞ、と促した。
「それじゃあ、俺はこれを上に出してから帰るから、みんな直帰していいから」
片手に書類の入ったバインダー、片手に鞄を携えた角松がそう言って検査庁へ踵を返そうとするのを、工藤が引き留める。
「あ、それもし僕でいいなら提出して来ます。デスクに携帯忘れちゃって、取りに行くので」
「や、でも」
提出は誰でも、否、コイツでなければ誰でも良いんだけれど上司としてそれは悪い、と首を振る角松に、金田も言う。
「俺も一度庁舎に戻りますから、補佐こそ直帰して下さい。最近忙しくて録に寝てないんでしょう」
二人に、後は任せてください、と言われた角松はそこで折れた。
「……じゃあ預けていいか?」
「はい」
バインダーを受け取った工藤がどこか上の空の芯子を見やる。
「芯子さんは……」
「ん? ……アーターシーは、帰、る」
危ない。ほうけていた。芯子は取り繕うようにいつもを装って、少し怠そうに歩く。
「んじゃ、お疲れさん」
後ろから、お疲れ様でした! の声、それから、んじゃあ俺も帰るな、悪いけど宜しく頼むわ。が聞こえた。
路地にふらりと入り込んだ芯子は、その壁に背中を預けるようにずるずるとしゃがみこんだ。
気持ち悪い。吐きそうだ。唾液の量が半端じゃない。はあ、はあ、と荒い息を地面に向かって吐き出す。
(こりゃカンッペキ風邪ひいたな)
検査庁の面々には恐らく気付かれずに済んだ筈だ。少し休めば、家まで歩いて帰れない距離ではない。遠くはあるが、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながらも立ち上がる気力が出ずに身体を折り曲げていた芯子の前に、影が立った。
「何してんだ、お前」
「……」
角松だった。
よろよろと見上げると、長身が此方を見下ろしている。なんて間の悪い男だろうか。
「……体調、悪いのか」
「べ……っつにぃ、わるくなんか……」
ない、よっ! 勢いで立ち上がるが、頭が揺れる。途端にこみ上げる吐き気。それをなんとかやり過ごして、壁伝いに歩きだす。
「ってあからさまに悪いだろ!」
「……っさいな……」
寒い、寒い、寒い。
「さむ……」
うっかり、言葉に出してしまった。
とはいえ元々芯子の今日の格好はいつもの長袖のシャツにジャケットなので、別段おかしい言葉ではない。ごまかすように、「きょーはさっみぃなあ」と呟いて、アンタも風邪ひかないうちに帰んな、と、そちらを見もせず手を振ってやると、その手が、掴まれた。
「寒い? 手はこんなに熱いのにか?」
「……触んなっつーの……」
言いながらも振りほどく力もない。折れそうになる膝に、舌を打つ。
「タクシー呼んでやるから、」
それに乗って帰れ。
角松がその台詞を言い切ったのと、芯子が地面に崩折れたのはほぼ同時だった。
「き……もち、わ……」
意識がブラックアウトする。その、寸前に、芯子の耳に「しっかりしろ、芯子」という聞き慣れた声が聞こえた。
(アタシの、名前)
洋子ではなく、堤芯子を呼んでいる声。
※※※
(芯子さん、好きです)
そんな声が頭に響いて芯子は目を覚ました。
またこの夢かと思いながらそろそろと目を開けば、そこは、知らない天井。周りを見ると、それ程物はなく整理された棚だの何だのがあるだけの簡素な部屋。部屋や調度品には見覚えはないのでここは取り乱すべきかも知れないけれど、寝かされたベッドの匂いだけは知っていた。
(ここは……)
ジャケットだけは脱がされていて、暖かな布団が芯子をくるんでいる。序でに、アイツの香りも。オッサンくせ、と内心悪態をつきながらも出ようとしないのは、寒いからだ。決して心地良いからではない。筈。
ガチャリとドアが開いた。
「起きたか?」
角松が聞きながら入ってくる。
「……引っ越したんだ?」
「ん? いや、一回もしてないぞ」
「うーそ、だってアタシこの部屋知らない」
し、ベッドだって変わってる、と言いながら身を起こす。角松が洗面器とタオルを持っているのが見えた。
「家具は替えたし寝る部屋も替えたけど越してはない……てかお前、いきなり倒れんじゃねーよ」
倒れる。そうか、倒れたのか、それでコイツの家にいるのか。
「アンタんちの近くだったんだ」
「……お前の実家までタクシー乗せようかと思ったけど、とりあえず一回休ませたほうが良いかと思ったんだよ」
安心しろ、ジャケットしか脱がしてないから、と別に此方が気にもしていないことをポツリと呟いた角松を見つめる。
(変わんねーな、お人好し)
ベッドサイドに持っていたものを置いて、洗面器からコップを出すとそれを芯子に寄越す。黙って受け取った芯子は、入っていた水をゆっくりと飲み込んだ。
「落ち着いたか、少しは」
「まーだちょっと気持ち悪いけど、大分、な」
コップを返してふーっと長く息をした芯子の額に、角松が手の甲を押し付ける。
「熱いな」
体温計、見つからないから、と言いながら今度は少し汗ばんだ手で芯子の頬を包むようにして、やっぱり熱い、と眉間に皺を寄せた。
「もう少し休んでろ。帰りはタクシー呼ぶから」
「……」
角松の手が芯子の身体をベッドに横たえてから、離れる。体温が、温もりが、離れる。
イヤだな、そう思ったのは、芯子だった。
置いてくな。ぐるぐるする。芯子さん、好きです。優はそう言った。じゃあ、アタシは誰が好きなんだろか。コイツは、アタシの事が、好きなんだろーか。騙されて、捨てられた癖に騙した相手を甲斐甲斐しく世話する。誰にでも?
イヤだな。
「すっごい、寒い」
「寒いか? じゃあもう一枚ふと……」
言い終える前に、するりと伸びた両の手が角松のYシャツを勢いよく引いた。
「うぉっ!」
突然前に引き倒されて、思わず声が出る。間一髪、芯子の頭を挟んでベッドに手を付き、彼女に身を叩きつけて押しつぶすことだけは避けた角松は、代わりに芯子と直近で面を突き合わせることになる。ほぼゼロ距離に不覚にも心臓は早鐘を打った。
何考えてんだこの女は。表情からそう読み取れる。
「……離せ」
「今なら、逃げらんないな、アタシ」
何をわけのわからないことを、と眉を顰めた角松のシャツを更に引いて、今度こそ体勢を崩したそいつに、その唇に、芯子は自分の唇を押し当てた。
ただ合わせるだけのその行為が、ひどく落ち着く。人の、角松の温度の心地よさに吐き気が嘘のように収まっていく。
いつの間にか、芯子の手はシャツを離れて角松の頬を包んでいた。
そっと唇を離す。
「……ほら、な?」
「な、じゃないだろうが……!」
されるがままになっていた角松が至近距離で叫ぶが、芯子は構わない。
「寒いん、だ、って」
計ってこそいないが恐らくは熱に浮かされた頭。もう何かを明瞭に考えることもままならない。
身体は昔嗅ぎ慣れた匂いに熱くなるのに、内側がただ、寒い。
「ていうかお前、熱……」
「あるかも、な」
「……かも、じゃない。あるぞ、絶対」
感染す気か、と言われて、芯子が笑った。
「あっためてよ、シングルパー」
「布団入ってろ、その内あったくなる」
「ちーがう……」
アンタが、あっためて。
うまく動かない怠い指先でネクタイを外し、ベッドの下に放る。次いで上から一つ、一つ、ボタンを外す。
「昔さ、よくこーやって外してやったね」
「……何考えてんだ、お前」
何考えてんだ、もないだろう。男女がベッドで裸でする事なんか決まりきってる。嫌なら逃げれば良いのだ。芯子が摘んでいるのはシャツのボタンだけだし、乗り上げる格好なのは角松の方なのだから。逃げないのは、風邪っぴきでも抱く気があるってこと、だろ?
「アンタ、しんぞーの音ヤッバイよ?」
「ほっとけ」
「その気んなったか?」
なったんなら、後はアンタが脱いで、アンタが脱がして。
性急に事を進めようとする芯子に、角松が溜め息をついた。
「なるか馬鹿!」
「……やっぱりタマナシなのか」
「違う! そうじゃなくて、お前……」
角松が真剣な目をしている。
「何」
「お前、何焦ってんだ」
「焦る?」
焦るってなんだ。なんにも焦っちゃいない。ああ、がっついてるってコト? だって、無性に、体温が恋しい。寒いから。
「……工藤に告白されてから、お前ちゃんと寝てんのか」
「……」
「体調崩すくらい考えてるんだとしたら、」
だとしたら何。
-補佐こそ直帰して下さい。最近忙しくて録に寝てないんでしょう-
金田の言葉が芯子の脳裏をよぎる。
「人のこと、言えんのか? アンタこそ碌々寝てないんだろ」
詰まった角松に、芯子が鼻を鳴らす。睦言の距離なのに、何故説教されねばならないのか。やっぱりアタシはこんなシングルパー好きじゃない。心中で結論づけた芯子を、角松の瞳がじっと見た。
そして、ゆっくりと、言う。
「ああ、ここ二、三日寝てない。工藤がお前に告白したとき、正直すごく動揺したからな、自分でも驚いた」
「……なんだそれ」
なんだその理由。
「でも、それは俺の問題でお前と工藤は関係ないことだ」
「……」
「お前はお前が思うようにすればいい。焦るな。工藤だってお前のこと困らせたいわけじゃないだろ」
アタシは、誰が好きなんだろうか。
アンタは、アタシが好きなんだろうか。
……もしも、アンタがアタシを好きなら、関係なくはないんじゃないか?
「アンタ寝てないの、忙しいからじゃないわけ?」
「え……あ、いや、忙しい! なんせ補佐だからな! 別にお前と工藤がどうなるかとかそんなことはどーでもいいんだ!」
真剣な様子はどこに行ったのか。角松は途端に顔を赤らめてどうでもいいどうでもいいを叫ぶ。その様を見て芯子がふっと笑った。
焦るな、と言われた言葉に落ち着いた。誰も気づかない自分に気付いてくれる人がいる。
教育管理委員会の無駄の一つを潰して、これで何が変わるとは思えないがそれでも、何かのきっかけにはなる。
芯子は、スワロフスキーの散りばめられた電卓をポケットの中で握り締めると息を吐き出した。
一人、検査庁へ足を速める芯子を後ろから見る男達は、確実に1ヶ月と変わる自分を、感じている。
例えば、角松一郎も、だ。
騙された筈なのに、今だって、その屈辱は忘れていない筈、なのに。だから、堤芯子が錦に襲われようが関係などなかったのに。
工藤や金田、それから後ろを歩く年増園のキャバ嬢達より少しだけ足を速めれば、容易く芯子に近付ける。
角松はこちらを見ようともしない詐欺師の旋毛に目を落とし、それから芯子と同じく真正面を向いた。
芯子の手が、何度か自らの尻をぱんぱんと、まるで埃でも払うかのように叩いているのが、気になった。声をかけようとすれば、小さく、ったくあのエロ親父が、が聞こえる。エロ親父、で今頭に浮かぶのは、錦。思いつくのは昨日のお持ち帰り。
「なんかされたのか?」
「あ?」
声を掛けられた芯子は、正面を見据えたままで不機嫌そうにそれだけ返した。
「錦にだ」
そこまで言ってやれば、やはり芯子が触るのは己の臀部。実に忌々しげに、唇を尖らせる。
「あー、ケツ触られたね。あと、股関に手ェ突っ込まれかけたからキュウリつかませてやった」
余程嫌だったのだろう。その声には嫌悪しかない。
それにしても。
「あのキュウリ、やっぱり」
股関の一物代わりだったのか、と、角松は再び自分のそこに目を伏せた。
「いやー、御守りがわりに持っててよかった。一瞬ひやっとしたけど、まさかホントにキュウリで騙されてくれるとは、な」
「触られて、嫌だったのか」
「あったり前だ、ろ! 誰があんな中年に尻触られて喜ぶかっちゅーの!」
のびのび君越しじゃなかったら投げてたな、と荒まいて吐き出す芯子は普段男まさりな格好や口調をしているものだから、角松は少し、ほんの少しだけ意外に思ってしまった。
そして、ほんの少しだけ、もやもやとした思いが胸に渦巻く。
「……悪かったな、その」
「ンぁ?」
「だから、すぐ、追いかけなくて」
「あー、……別に、逃げたし。つーか追い出されたし?」
角松が素直に悪かったと言えば、芯子は居心地が悪いのか? つっけんどんに言い返す。
「どうせキュウリ入れるなら、俺か工藤が入れば、」
そこまで言って、けれどその言葉は思い切り振り返った芯子によって遮られた。
「なーになーに、なんかあった? ンもぅなんかきもちわっるいんだけど!」
あ゛ーむずむずする! と身体を掻くようなジェスチャーをしながら叫ばれる。
「……いや」
「あ、もしかしてアレか。錦にケツ触られんのは嫌だったけど、俺ならどうなんだろう、とか思ってんのか」
「ぅンなわけねーだろ!」
殊勝な気持ちで身を案じるような言葉を掛けたのになんでそんなことを言われなければならないのか、と憤慨する角松は、自分が芯子のペースに引き込まれていることに気づかない。
芯子は内心ほっと息をついた。先のように他人に主導権を握られるのは、性に合わない。
特に、コイツには。
いつだって私が、心を乱してやる側だ。
こんな風に。
「……別に、やじゃないヨ?」
つつつ、と少し角松の近くに寄って、斜めに上目遣いで見上げると、相変わらずの単純馬鹿が息を呑むのが喉仏の動きでわかる。
「え」
極力小さな、小さな声で、アナタだけに聞こえるように言うね、とばかりに紡ぐ言の葉は、口八丁の詐欺師、最大にして唯一無二の武器。
「角松サンになら、さ、わ、ら、れ、て、も、やじゃナイ」
きゃ、なんて頬に手を添える仕草など、妹のみぞれが見たら瞠目するだろう。しかし妹は工藤君と金田っちをもう二人と囲んで次の遠足の算段に勤しんでいる。それも、かなり後方で。
公道ではあるが、芯子と角松は今完全に二人きりだ。
「……」
芯子は突然、角松の腕をガバリと引くと、横路に逸れる。いつかのように壁にトン、と突き飛ばすと、コンクリートは角松をその硬い身で受け止めた。
イッテェ、と漏らす角松に、笑う。
「のびのびとぉー……」
「なにすん、」
「ちゅー、のポーズ!」
「だっ……ぅええ……!?」
目を閉じ唇をツンと突き出した芯子に、角松がうろたえる。
据え膳かこれ据え膳か食わぬは男のなんとやらか!? いやしかし待て待て角松一郎思い出せ、この間だってそのまた前だって!
馬鹿である。
そのままの格好で、5、4、3、2、1、心で数えた芯子は、目を開け、離れた。ゼロ。
(ばーか)
「にゃーんちゃって、な」
「ああ……ま……た騙され……!」
コンクリートに頭をこすりつける角松の後ろ姿に、芯子が、舌を出した。
騙してないし。今回はただの、時間切れだっちゅーの。
あんな格好で待つ女を、長く待たせるア、ン、タ、が、悪い! そう毒づく瞳が角松にわかるわけもなく、だから芯子もなんにもなかったことにして、角松を横路に残したままで踵を返して大きな通りに歩き出した。
遅れていた後方組と合流すると「何してたの芯子姉ェ」とみぞれに言われて、けれどつい今し方なんにもなかったことにした芯子は、なーんにも、と答えてやる。
「芯子さん、今度は動物園とかどうですか?」
「どーぶつえん?」
「はい!」
元気に返事をするは、工藤優。どうやらコイツにも好かれているようだ。
(モテ期到来だね)
口角を上げた芯子は、どう控えめに見ても先ほど錦に啖呵を切った後よりも機嫌がいい。
その機嫌の良さのまま呟く声も、いつもよりもどことなく、すがすがしく晴れやかだった。
「いーかーないっちゅーの!」
芯子は、スワロフスキーの散りばめられた電卓をポケットの中で握り締めると息を吐き出した。
一人、検査庁へ足を速める芯子を後ろから見る男達は、確実に1ヶ月と変わる自分を、感じている。
例えば、角松一郎も、だ。
騙された筈なのに、今だって、その屈辱は忘れていない筈、なのに。だから、堤芯子が錦に襲われようが関係などなかったのに。
工藤や金田、それから後ろを歩く年増園のキャバ嬢達より少しだけ足を速めれば、容易く芯子に近付ける。
角松はこちらを見ようともしない詐欺師の旋毛に目を落とし、それから芯子と同じく真正面を向いた。
芯子の手が、何度か自らの尻をぱんぱんと、まるで埃でも払うかのように叩いているのが、気になった。声をかけようとすれば、小さく、ったくあのエロ親父が、が聞こえる。エロ親父、で今頭に浮かぶのは、錦。思いつくのは昨日のお持ち帰り。
「なんかされたのか?」
「あ?」
声を掛けられた芯子は、正面を見据えたままで不機嫌そうにそれだけ返した。
「錦にだ」
そこまで言ってやれば、やはり芯子が触るのは己の臀部。実に忌々しげに、唇を尖らせる。
「あー、ケツ触られたね。あと、股関に手ェ突っ込まれかけたからキュウリつかませてやった」
余程嫌だったのだろう。その声には嫌悪しかない。
それにしても。
「あのキュウリ、やっぱり」
股関の一物代わりだったのか、と、角松は再び自分のそこに目を伏せた。
「いやー、御守りがわりに持っててよかった。一瞬ひやっとしたけど、まさかホントにキュウリで騙されてくれるとは、な」
「触られて、嫌だったのか」
「あったり前だ、ろ! 誰があんな中年に尻触られて喜ぶかっちゅーの!」
のびのび君越しじゃなかったら投げてたな、と荒まいて吐き出す芯子は普段男まさりな格好や口調をしているものだから、角松は少し、ほんの少しだけ意外に思ってしまった。
そして、ほんの少しだけ、もやもやとした思いが胸に渦巻く。
「……悪かったな、その」
「ンぁ?」
「だから、すぐ、追いかけなくて」
「あー、……別に、逃げたし。つーか追い出されたし?」
角松が素直に悪かったと言えば、芯子は居心地が悪いのか? つっけんどんに言い返す。
「どうせキュウリ入れるなら、俺か工藤が入れば、」
そこまで言って、けれどその言葉は思い切り振り返った芯子によって遮られた。
「なーになーに、なんかあった? ンもぅなんかきもちわっるいんだけど!」
あ゛ーむずむずする! と身体を掻くようなジェスチャーをしながら叫ばれる。
「……いや」
「あ、もしかしてアレか。錦にケツ触られんのは嫌だったけど、俺ならどうなんだろう、とか思ってんのか」
「ぅンなわけねーだろ!」
殊勝な気持ちで身を案じるような言葉を掛けたのになんでそんなことを言われなければならないのか、と憤慨する角松は、自分が芯子のペースに引き込まれていることに気づかない。
芯子は内心ほっと息をついた。先のように他人に主導権を握られるのは、性に合わない。
特に、コイツには。
いつだって私が、心を乱してやる側だ。
こんな風に。
「……別に、やじゃないヨ?」
つつつ、と少し角松の近くに寄って、斜めに上目遣いで見上げると、相変わらずの単純馬鹿が息を呑むのが喉仏の動きでわかる。
「え」
極力小さな、小さな声で、アナタだけに聞こえるように言うね、とばかりに紡ぐ言の葉は、口八丁の詐欺師、最大にして唯一無二の武器。
「角松サンになら、さ、わ、ら、れ、て、も、やじゃナイ」
きゃ、なんて頬に手を添える仕草など、妹のみぞれが見たら瞠目するだろう。しかし妹は工藤君と金田っちをもう二人と囲んで次の遠足の算段に勤しんでいる。それも、かなり後方で。
公道ではあるが、芯子と角松は今完全に二人きりだ。
「……」
芯子は突然、角松の腕をガバリと引くと、横路に逸れる。いつかのように壁にトン、と突き飛ばすと、コンクリートは角松をその硬い身で受け止めた。
イッテェ、と漏らす角松に、笑う。
「のびのびとぉー……」
「なにすん、」
「ちゅー、のポーズ!」
「だっ……ぅええ……!?」
目を閉じ唇をツンと突き出した芯子に、角松がうろたえる。
据え膳かこれ据え膳か食わぬは男のなんとやらか!? いやしかし待て待て角松一郎思い出せ、この間だってそのまた前だって!
馬鹿である。
そのままの格好で、5、4、3、2、1、心で数えた芯子は、目を開け、離れた。ゼロ。
(ばーか)
「にゃーんちゃって、な」
「ああ……ま……た騙され……!」
コンクリートに頭をこすりつける角松の後ろ姿に、芯子が、舌を出した。
騙してないし。今回はただの、時間切れだっちゅーの。
あんな格好で待つ女を、長く待たせるア、ン、タ、が、悪い! そう毒づく瞳が角松にわかるわけもなく、だから芯子もなんにもなかったことにして、角松を横路に残したままで踵を返して大きな通りに歩き出した。
遅れていた後方組と合流すると「何してたの芯子姉ェ」とみぞれに言われて、けれどつい今し方なんにもなかったことにした芯子は、なーんにも、と答えてやる。
「芯子さん、今度は動物園とかどうですか?」
「どーぶつえん?」
「はい!」
元気に返事をするは、工藤優。どうやらコイツにも好かれているようだ。
(モテ期到来だね)
口角を上げた芯子は、どう控えめに見ても先ほど錦に啖呵を切った後よりも機嫌がいい。
その機嫌の良さのまま呟く声も、いつもよりもどことなく、すがすがしく晴れやかだった。
「いーかーないっちゅーの!」
「わっかんない」
電卓をカタカタと弄んでいた芯子は、椅子に片足を乗せて膝を立てるとそこに顎をのせた。机上の書類は一枚も捲られずにあり、そんなにも難しかったか、と口を開いたのは、こちらも新人の工藤だった。
「どこがですか?」
問いながら芯子の手元の書類を覗きこむと、違う。全ッ然違う。と、彼女の口癖で返される。
こっちじゃなくて。
「堺。アイツ、アタシがココで働いてること、なんで知ってたんだろ」
堺と会ってからの素朴な疑問は、芯子の中でぐるぐると渦を巻きっぱなしだった。
少なくとも一度目に敵地に赴いた時には、絶対に顔を合わせてはいない筈なのだ。だから、堺は警務科で鉢合わせた時に二度見してきた。だとすれば、あの刑事は一体いつ、どこで、芯子が会計検査庁で働いていることを知ったのか。それが、わからない。
芯子が首を傾げている目の前、焦ったのは、工藤だった。
だって彼はもう二度、芯子から警告されている。
余計な詮索は身を滅ぼす。
「あ、それは、」
「工藤が根こそぎお前のこと喋ったから、だろ」
なんとか取り繕おうとした工藤の首を締め上げたのは、そうめんかぼちゃ、もとい金田だった。工藤の顔から少し血の気が引く。芯子の鋭い視線が、刺すように痛い。
ガン、と芯子が、机を蹴った。
「……すーぐーるー君、ちょっと」
「はい……」
ちょいちょいと指で呼ばれた工藤は、素直に芯子の元までいく。椅子に座る芯子が工藤を見上げる形になり、芯子はその位置からギロリと睨み上げた。そしてスッと手を伸ばすと、ネクタイを掴み立ち上がる。
し、芯子さん……! うっさい、黙れ。
ネクタイを引かれた工藤が放り込まれたのは、以前芯子が角松に「金返せ!」を言われた資料室。芯子はネクタイを離すと、今度は工藤の顎をガッと掴み資料棚に押し付けた。
「工藤優、アンタさァ、上のお口がユルすぎるんじゃない?」
警告が足りないなら本気でお天道様拝めなくしてやろうかァ? このスットコドッコイ。
「すみません……」
顎を掴まれたままできる限り頭を下げて謝罪する工藤の耳元まで顔を寄せ、芯子は小さく囁いた。
「……その口一度はアタシ直々に塞いであげたんだから、今度は自分でチャック出来るようにな・り・な・さい」
言葉とともに、顎が解放される。
「は、い、あのでも、塞いだって……あ……!」
放された顎をさすった工藤は、塞いだ、の意味が判らず芯子に問いかけようとした。瞬間フラッシュバックするのは、つい先日の警察をまくためだけにされた口づけ。
工藤はあらん限り顔中の血管を拡張させた。耳まで紅くなる、とはまさにこのことだ。
「しししし芯子さ……」
どもりにどもった工藤の声をかき消したのは、正午を指す時計の音だった。
「お、昼だね。よし、飯でも食いに行くかー。すぐる」
「……はい、」
「アンタの奢りで。この辺で旨い定食屋かなんかないのー?」
ガン、と資料室のドアを開け外に出れば、ちょうどそこには元婚約者の角松の姿。突然出てきた芯子にビビった角松は、その後ろから出てきた工藤に目を見張る。
「お、お前ら、資料室で二人で何してたんだ」
角松の言葉に、いかにも面倒くさいという表情を作った芯子は、先ほど工藤にしたように角松をちょいちょいと呼ぶ。その耳元で、囁いた。
「……密会」
「みっ……!?」
「すぐる!」
「はい!」
呼ばれれば条件反射で返事をする工藤君に、首を傾げながら芯子が微笑む。
「ねー?」
「あ、え? は、はい、」
空気読め、と空気で言われた工藤は何も考えずに首肯した。途端に角松が表情を変えたことには、気付かないまま。
「はいはいはい、行くよ!」
「密会……ってこら、どこ行くんだ!」
「昼飯」
「あ、待って下さい、芯子さん!」
今日も平和。
電卓をカタカタと弄んでいた芯子は、椅子に片足を乗せて膝を立てるとそこに顎をのせた。机上の書類は一枚も捲られずにあり、そんなにも難しかったか、と口を開いたのは、こちらも新人の工藤だった。
「どこがですか?」
問いながら芯子の手元の書類を覗きこむと、違う。全ッ然違う。と、彼女の口癖で返される。
こっちじゃなくて。
「堺。アイツ、アタシがココで働いてること、なんで知ってたんだろ」
堺と会ってからの素朴な疑問は、芯子の中でぐるぐると渦を巻きっぱなしだった。
少なくとも一度目に敵地に赴いた時には、絶対に顔を合わせてはいない筈なのだ。だから、堺は警務科で鉢合わせた時に二度見してきた。だとすれば、あの刑事は一体いつ、どこで、芯子が会計検査庁で働いていることを知ったのか。それが、わからない。
芯子が首を傾げている目の前、焦ったのは、工藤だった。
だって彼はもう二度、芯子から警告されている。
余計な詮索は身を滅ぼす。
「あ、それは、」
「工藤が根こそぎお前のこと喋ったから、だろ」
なんとか取り繕おうとした工藤の首を締め上げたのは、そうめんかぼちゃ、もとい金田だった。工藤の顔から少し血の気が引く。芯子の鋭い視線が、刺すように痛い。
ガン、と芯子が、机を蹴った。
「……すーぐーるー君、ちょっと」
「はい……」
ちょいちょいと指で呼ばれた工藤は、素直に芯子の元までいく。椅子に座る芯子が工藤を見上げる形になり、芯子はその位置からギロリと睨み上げた。そしてスッと手を伸ばすと、ネクタイを掴み立ち上がる。
し、芯子さん……! うっさい、黙れ。
ネクタイを引かれた工藤が放り込まれたのは、以前芯子が角松に「金返せ!」を言われた資料室。芯子はネクタイを離すと、今度は工藤の顎をガッと掴み資料棚に押し付けた。
「工藤優、アンタさァ、上のお口がユルすぎるんじゃない?」
警告が足りないなら本気でお天道様拝めなくしてやろうかァ? このスットコドッコイ。
「すみません……」
顎を掴まれたままできる限り頭を下げて謝罪する工藤の耳元まで顔を寄せ、芯子は小さく囁いた。
「……その口一度はアタシ直々に塞いであげたんだから、今度は自分でチャック出来るようにな・り・な・さい」
言葉とともに、顎が解放される。
「は、い、あのでも、塞いだって……あ……!」
放された顎をさすった工藤は、塞いだ、の意味が判らず芯子に問いかけようとした。瞬間フラッシュバックするのは、つい先日の警察をまくためだけにされた口づけ。
工藤はあらん限り顔中の血管を拡張させた。耳まで紅くなる、とはまさにこのことだ。
「しししし芯子さ……」
どもりにどもった工藤の声をかき消したのは、正午を指す時計の音だった。
「お、昼だね。よし、飯でも食いに行くかー。すぐる」
「……はい、」
「アンタの奢りで。この辺で旨い定食屋かなんかないのー?」
ガン、と資料室のドアを開け外に出れば、ちょうどそこには元婚約者の角松の姿。突然出てきた芯子にビビった角松は、その後ろから出てきた工藤に目を見張る。
「お、お前ら、資料室で二人で何してたんだ」
角松の言葉に、いかにも面倒くさいという表情を作った芯子は、先ほど工藤にしたように角松をちょいちょいと呼ぶ。その耳元で、囁いた。
「……密会」
「みっ……!?」
「すぐる!」
「はい!」
呼ばれれば条件反射で返事をする工藤君に、首を傾げながら芯子が微笑む。
「ねー?」
「あ、え? は、はい、」
空気読め、と空気で言われた工藤は何も考えずに首肯した。途端に角松が表情を変えたことには、気付かないまま。
「はいはいはい、行くよ!」
「密会……ってこら、どこ行くんだ!」
「昼飯」
「あ、待って下さい、芯子さん!」
今日も平和。